鈴木謙介『するグローバリゼーション』(NTT出版) 『ウェブ社会の思想』(NHKブックス)レビュー

“反転”するグローバリゼーション

“反転”するグローバリゼーション

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)



 
前著『カーニヴァル化する社会』の続編というべき『ウェブ社会の思想』は、宮台・鈴木・堀内の『幸福論』の向こうを張って、『宿命論』と題していただきたかったなあ。ユビキタス社会の成立によって、「わたしを表現するデータ」が、<私>に先んじて「わたしを代弁してしまうという事態」が生じてしまう。この機制が、「自己物語」における「閉鎖性」即ち「他の選択肢の排除」という原基的な欲望と結託するとき、換言すれば、「自己物語」において必要とされた“他者”の承認が、「記録」=「わたしを表現するデータ」という「客観的事実」の参照として取って代わられるとき、ユビキタス環境における「宿命」性(=「他にはあり得なかった」自己物語性)が迫り出してくるのだ。大澤真幸は、<私>という存在の本質を、他でもあり得たかもしれない可能性であると指摘したけれども、とすれば、これは<私>が「わたしを表現するデータ」に、その<私>性を毀損される、端的で深刻な事態である。「他でもあり得たかもしれない可能性」の回復が急務であるけれども、とりあえずの応急措置としては、ここで著者が、「手の届きそうな未来を、少しずつでもいいから選び取る」という処方箋を示したのは妥当だろう。で、このあと著者の問題意識は、「宿命」の出来を用意する「島宇宙」の「外側の未来」は、この地点から望めるか、ということになり、ユビキタス環境下における「民主主義」というテーマに移行する。…………著者はここで、「工学的民主主義」と「数学的民主主義」というふたつの概念を提出するけれども、著者の見解に従うのならば、「工学的民主主義」はエリーティズム、「数学的民主主義」はマルチチュード的ということになる。そこで著者は、「工学的民主主義」にはその不可能性を(ここの部分は『幸福論』と議論が重なりますね)指摘し、この「工学的民主主義」という「セカイ系的な夢」をプロデュースする「数学的民主主義」のアーキテクチャには、それ自体の究極の自律性を否定し、要するにあくまでも“私たち”の日常生活における価値判断や欲望をアーキテクチャがとりこむことなしには設計すら覚束ないという。――アーキテクチャの正統性が担保されない、あるいは端的に“意味”を成さないアーキテクチャは、ゴミでしかない。しかし、そのゴミに、<私>が「宿命」づけられる事態が出来するのか、しないのか。著者は「宿命」=「夢のセカイ」の外側における関係性の流動性に活路を見出す。とくに<外部>の根拠に「時間性」を持ってくるのは、差し当たっては正解だと思うのだ。「胡蝶の夢」において「時間性」が変容する可能性があろうとしても。
 同時期に刊行された『<反転>するグローバリゼーション』では、この「宿命」というコトバは、<近代>以降の社会システムが、<市民>に強いる政治的振る舞いの謂いになる。つまり、『ウェブ社会の思想』では未来に、『<反転>するグローバリゼーション』では過去に時間軸は向いているわけだが、<国家>という、「人間らしい」「市民らしい生き方」を諸個人が送るにあたる参照枠が、グローバリゼーションの進展で後景化すると、「市民権の人権化」、QOLや貧困という問題は、「従来は国家福祉によって保障されるべき、市民の資格の問題だったが、現在ではより人間性に近い領域の問題として把握され」るようになる。換言すれば、<国家>は「グローバルな市民社会」の理念を実現・遂行するための下部組織と成り下がるのだ。ここにおいて、例えば「人道的介入」のようなアクションも正当化されるわけだが、このようなグローバリズムの対抗戦略としてローカリズムが台頭してくる。ここでデランティの指摘する「共同体」における脱伝統性の議論を著者は引用して、それは即ち、<近代>以降に「共同体」の喪失という<物語>を仮構することにより、新たな「共同体」を希求し続けるという機制によって(そして現実に社会的紐帯が喪失することによって)、「人々は、「共同体」という概念と「アイデンティティ」という概念の区分を失っていく」ということである。この「共同体」の「強度」ということに関していえば、“現実”の「共同体」もオンライン上の「共同体」も、等しく「バーチャル」である以上、差異は存在しないのである。そして、この「強度」が自己拘束性に直結するのは、あまりにも自明である。これが、ある種の実践として帰結するのが、「原理主義」ということになろうが、著者はギデンズの、「原理主義」に対抗するモチベーションとなる、再帰的近代の果ての「反省」というパースペクティブにおける政治的目的性に言及して、その「宿命論的な色彩」を示唆するが、そうとすれば、これはアイロニー以外の何ものでもないだろう。ギデンズの提唱した政治的コンセプトである「第三の道」そして「新進歩主義」におけるコスモポリタニズムは、その実践形態として、グローバルな統治形式の「民営化=私事化(プライバタイゼーション)」が可能性として浮上してくる。著者は、「民主主義の民主化」というコンセプトが目的化した帰結だと述べる。――そして著者は、「国民国家」という擬制に、グローバリズムローカリズムを“反転”させる契機を探る。…………さて、この二著をあわせて見た場合、「宿命」とその“外側”の関係性という主題が、いわば<歴史>としての「民主主義」的営為を“私たち”がどう遇するか、という問題性に帰着するようだ。「国民国家」は擬制だが、それを維持するために為された討議、それに費やされた<時間>は、フィクションではない。そして、それが「生存の可能性を共有する同胞」との生活世界の維持・発展や修復に奉仕されているのならば、「宿命」性に抵抗しうるものとして、パブリックなものとしての「民主主義」へのコミットは有用だろう。このとき、「国民国家」は「グローバルな市民社会」と「アイデンティティ=共同体」に挟まれる中間集団的色彩を帯びることになる。