笠井潔『探偵小説と記号的人物(キャラ/キャラクター)』(東京創元社)レビュー



 著者が本論の最終章で、ラノベの美少女「キャラ」に対して、「彼女たちは萌え要素の束以外のなにものでもないのに、どうしてか哀切なものを喚起させる。(中略)それは、萌えキャラの徹底化の果てに出現する謎めいたなにかという以外ない」と述懐するのに対して、「それって、対象aのことですよね」と思わず言ってしまって、後の祭り。…………いや、でも、前作『探偵小説と二〇世紀精神』が、ベンヤミンを召喚したのに対して、本作のテーマは実質的にラカンの思想圏で思索が展開されているのではないか。「象徴」の概念について、著者は精神分析的意味合いとは一線を画して使用していると思うけれども、「キャラクター」から「キャラ」へ、物語内部の登場人物の立ち上がり方は、<主体>をめぐるリアリティと相即しているのは間違いない。清涼院流水の紡いだ一連のテクストについて、著者はかつての(ものいわぬ民を代理して?)の批判を撤回して、流水テクストに肯定的な大塚英志斉藤環東浩紀三者の批評のうち、東浩紀の「データベース消費」論に概ね賛同する。「「謎―論理的解明」をめぐる形式性を引き抜かれた探偵小説様式は、東浩紀が『動物化するポストモダン』で提起した「大きな非物語」にも類比的である、無数のガジェットやギミックの無構造的な集積に変貌する」。ここにいたる過程で、大塚英志の流水評は「探偵小説的論理性という領域に無自覚」であると退けられ、斉藤環の「可能世界の徴候」を流水テクストに読み込む態度には、それがそもそもの<探偵小説>の固有の特質であると往なされる。…………流水は探偵小説様式の形式性を引き抜くことで、二一世紀的リアリティに到達しえた。私が今さら言うまでもなく、「キャラ」的な“人間”観は、「(非)物語」に留まらず、実際のコミュニケーションにおいて、「あのひとはああいうキャラだから」とか「あいつとこいつはキャラがかぶっている」などと浸透しているのだ(余談だけれども、某日某所で、一人称を「ぼく」と言う女の子が、「ぼく、ぼくキャラなんです」と自己紹介しているのを聞いて、目が点になったことがある)。極限のセキュリティ社会達成のための個体(情報)管理としての「データベース」の社会化という問題もさることながら、「大きな非物語」と戯れる「動物」たちが、“欲望”を要因として活動しているとするならば、しかしラカン的なパースペクティヴで見れば、斜線をひかれた<主体>たちが蠢いていることに変わりはない。――“父”の名において、象徴的去勢を被った<主体>は、シニフィアンの連鎖回路の中へ消失し、逆にシニフィアンから己が何者か告知されることになる。“欲望”とはこの失われた<主体>の自己回復運動としてあるが、最終的に自己の“欲望”は、他者がいかように欲望しているかに添って仕立て上げられ、即ち他者の“欲望”することこそ自己の“欲望”となる。――この“欲望”の質が、大きく変容しているとするならば、「他者」が変容しているということだけれども、もしかしたら「他者」について、二〇世紀と二一世紀の間に何らかの断層があるのかもしれない。この位相差が、例えば探偵小説における「謎―論理的解明」の形式性の有無に還元できるのだろうか。本論は「(前略)二一世紀的な時代精神を共有しながら、しかも「謎―論理的解明」の骨子において探偵小説以外のなにものでもない作品が登場することを期待しよう」と結ばれるが、まえがきでは、「しかし実証科学や数学の論理性が、探偵小説的論理の説得的な比喩でありえた時代は、もはや過ぎたのではないか」と疑問を呈し、著者は島田荘司の「21世紀本格」論とそれに寄せられた瀬名秀明のロボット本格に、これからの探偵小説の徴候を読み取るが、いずれにせよ、「A項とB項のあいだに確立されるのが論理的関係でなく、隠喩的関係でも人は容易に納得した気分になる」以上は、“探偵小説”それ自身のリアリティ(を測る度合いが、その作品の“受容”と不可分にあるかぎり、それ)を担保する“形式性”が、いったいどのような“文脈”で表されるのか、見極めにはまだ時間がかかるだろう。
 …………蛇足だけれども、大塚英志の提示したパースペクティヴ、記号的キャラクターから「生身の身体」が見出されることで「戦後まんがは誕生した」という認識のもとで展開される、一連の「戦後民主主義」批評を、私は否定しない。手塚治虫のまんがに出てくる、アメリカ機からの機銃掃射により傷を受け血を流した記号的キャラクターは、まぎれもなく非リアリズム的物語空間における「不気味なもの」ではないか。第一次世界大戦直後、フロイトはホフマン『砂男』などを手がかりに、「不気味なもの」と題する論文を仕上げた。「不気味なもの」とは、抑圧を経て回帰した「なじみある、親しみのあるもの」である。「不気味なもの」は典型的な「二〇世紀精神」だろうが、この回帰が一種の社会的な“機構”とみなすことができるのならば、「二一世紀」という“抑圧”の間隙を縫って、「二〇世紀精神」が「不気味なもの」(=「なじみある、親しみのあるもの」)として回帰してくる可能性は否定できないだろう。――あるいは、ここに<本格>の賭金があるかもしれないとさえ思うのだが。