「予言」する探偵小説4-Ⅴ

今回の文章も東野圭吾『容疑者Xの献身』の内容に触れています

 <他者>とは、<私>に対する“差異”である。私たちは、本来は、<他者>の「“選択”の痕跡をのみ把捉することができるだけ」である。しかし、<私>の目の前には、具象的な「他者」がいる。そうすると、本来の<他者性>は、直面している“この「他者」”から逃げてゆき、結果的に、「抽象的で虚構的」な、そして「“差異”の差異」として回帰する「同一性」をも兼ね備えた《他者》に結実する。この《他者》の措定が、恒常化して、さらにこれが形象化するとき、「神」が顕現する。…………この「神」が超越性を付与されるというのは、即ち、<他者>が<私>(が帰属する「宇宙」)に対する<外部>として現れる以上、<他者>が<私>(が帰属する「宇宙」)の範囲を規定するということであり、この本来の<他者性>が、《他者》=「神」に転移している、つまりはこの《他者》=「神」は<私>(が帰属する「宇宙」)を睥睨しているということである。――さて、ここにおいて、<私>と、<私>が直面している“この「他者」”の関係性はどうなるか。それは、旧約聖書におけるアブラハムとサラのように、「包括的な同一性の内に配分された相対的な差異として、互いを積極的に同定することができる」ものとなる。――以上が、大澤真幸が説明する、「性愛」と「信仰」の、“転形”が介在したコミュニケーションの機制の、その概観である。
 ここで、『容疑者Xの献身』における、花岡靖子の心理的な軌跡を追ってみよう。――「いっておくがな、おまえは俺から逃げられないんだ。」との元夫・富樫の嘲笑をきっかけに、花岡母娘は凶行に走る。この直後、石神は隣家の凶事に介入することになるが、事態を瞬く間に推理した石神に、「自分のことも観察されているような気がした」。「おじさんに手伝ってもらおうよ。それしかないよ」と、石神に助力を仰ぐのを促したのは、美里である。靖子がそれを決断したのは、職場の同僚でもあるオーナーの妻から、石神が自分に懸想していると聞いていたからだ。「もしその話を聞いていなければ、石神の神経を疑っているところだ」。…………以降、花岡母娘は石神の指示通りに行動することになるが、渦中で靖子の前に、後に自分に求婚することになる工藤が現れる。石神のモチベーションが、靖子への想いにあるのだとしたら、他の男と親しくする(素振りを見られる)のは回避しなければならない。そこで、靖子は、「不意にいいようのない焦燥感のようなもの」を抱く。「いつまで、石神の目を盗まねばならないのか。それとも事件が時効にならないかぎり、永久に自分は他の男性と結ばれることはないのか――」。工藤との仲は進展して、靖子は娘の美里とともに、工藤と会食することとなるが、家路につくとき、美里に「あのおじさんのことを裏切ったらまずいよな、と思っただけ」と牽制される。石神の新たになした作為のこともあり、「彼の支配から一生逃れられないのだとしたら、(中略)これでは富樫が生きていた頃と変わらない」と、石神に一生隷属する恐怖を抱くまでになるが、その直後、劇的な反転が待ち構える。石神が“富樫”殺しを自供したのだ。――「あなたは真実を何も知らない」と、<名探偵>湯川は、靖子に告げる。「あなた方は嘘をついていないのです」「でもあなたは不思議に思っているはずだ。なぜ嘘をつかなくていいのか、とね」。…………なぜ嘘をつかなくていいのか。「石神はあなたを守るため、もう一つ別の殺人を起こしたのです。(中略)本物の富樫慎二が殺された翌日のことです」。――「自分のような何の取り柄もなく、平凡で、大して魅力的とも思えない中年女のために、一生を棒に振るようなことをしたとは考えたくなかった」と靖子は途方にくれる。最後に、石神の残したメッセージを読み返して、「これほど深い愛情に、これまで出会ったことがなかった」と思い入るのだが、この直後、美里の自殺未遂の報せが靖子に入る――。
 「性愛」とは、「自身の選択は、ただこの他者の体験へと方向づけられており、他者の宇宙の内部でのみ意味あるものとして定位される」コミュニケーションで、性的関係のうちにあるものである。靖子が石神の行動を「意味あるもの」と定位したのは、<名探偵>湯川の推理に示唆されることによって、だ。「意味あるもの」の対意は「不条理なもの」だろう。靖子にとって、石神の行動の真意は、石神が自分に気があるゆえという理由付けだけでは、到底把握できない。なぜなら、自分ら母娘が凶行に及んだ日の、その翌日の“アリバイ”工作を石神は指示し、また警察もその日の“アリバイ”を尋ねてきたのだから。「本当は逆に問いたかった。なぜ三月十日なのですか――」。…………ところで、《他者》=「神」は<私>(が帰属する「宇宙」)の範囲を規定するのだった。大澤は、アブラハムとサラのエピソードを引用して、<身体>が「自らを欠如したものとして意味づけ、定位する」ような対象があった場合、その行為の反作用として、その対象に、「理想化された完全性の次元を、超越的な準位に構成してしまう」と述べる。花岡母娘と石神の関係性においても、この機制が逆説的なかたちで働いているとみていいだろう。即ち、石神の、花岡母娘に対する指示をも含めた一連の行動において、靖子は「欠如」を刻印されるのだ。――それでは、その「欠如」とはなにか? それは、花岡母娘の<記憶>である。石神は、花岡母娘の犯行当日における<記憶>を無くそうと、抹消しようとしている、明らかに。「事件を、彼女たちと完全に切り離してしまえばいいのだ。(中略)決して交わらない直線上に移せばいい」。この「決して交わらない直線」とは、いうまでもなく「宇宙」、“富樫”=富樫が存立する「宇宙」と、“富樫”={富樫と「富樫」(=富樫のニセモノ)}が存立する「宇宙」、この二つの「宇宙」と、その“差異”のことである。そしてこの“差異”を決定的に象徴する富樫の<身体>を徹底的に葬り去ることにより、花岡母娘の忌まわしき<記憶>をも葬送する、というのが、石神の企図だ。…………「何という奇麗な目をした母娘だろうと思った」。この石神の述懐を前提にして、聖女の如き花岡母娘に対する、石神の「献身」を、しかし肯定的に主題化できそうにない。おそらくは、ジェノ・テクストのレベルでそれを許さない。無論、ここにおいて「献身」のコミュニケーションのレベルにおける問題性を探求する契機はあるのかもしれないが、それはともかくとして、靖子の<他者>たる石神が、靖子に<記憶>の「欠如」を与える者として――靖子自身に「欠如」を刻印させる者として、靖子に対して顕現していることは間違いない。「不条理なもの」として、「意味」が失われたものとして、彼女たちは石神の作為した「宇宙」を生きることになる。…………『容疑者Xの献身』のテクストにおいて、靖子が「なぜ三月十日なのですか」と終始問わなかったのが、物語内部における最も作為性が際立つ点であるかもしれない。しかし、これまでの論脈からみれば、なぜ靖子がそう口に出さなかったのか、了解できる。即ち、靖子において「三月九日」の<記憶>が消失しつつあるのだ。それは、「三月十日」の<記憶>として、捏造されつつある。――そして、それが、結果的に叙述トリックとして、このテクストにおいて機能することになるのである。…………最終的にこの叙述トリックが明かされるということ、換言すれば、<名探偵>湯川によって<犯人>石神の作為が明らかにされること、つまり靖子に「三月九日」の<記憶>が回復することにより、靖子(が帰属する「宇宙」)の内部で「意味あるものとして定位される」。…………繰り返すように、花岡母娘は“富樫”殺しにおいては、同一のポジションにいる。だけれども、結果的に、靖子と美里がその帰属する「宇宙」に決定的な“差異”が生じてしまうのは、ここに起因するのだ。