大屋雄裕『自由か、さもなくば幸福か? 二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う』(筑摩選書)レビュー



 前作『自由とは何か』から七年、続編ともいうべき著作がやっと出た。「あとがき」を読むと、大学業務に忙殺されて学問の自由が圧迫されているようで、読者にとっても、嬉しくない皮肉な執筆環境である。……一九世紀システムである「人民の自己統治原理」は、近代国家の構築性の基礎にあたるものだったが、「近代国家」は、物理的にも情報技術的にも超克されてしまったし、「人民の自己統治」は、二一世紀の最果てに、セキュリティ意識の増大による社会の圧迫に帰結する。来るべき社会の法的設計は、いかに選択され得るか。著者の選択肢の導出と、そこに至る歴史法学的検討は本書を読まれたいが、社会におけるパノプティコン原理の展開について、全体を対象とするのか、個々人を対象とするのか、どうも経済的利得計算に引きずられて、妙な折衷案が出てきそうな気がする。