芦辺拓『少年は探偵を夢見る――森江春策クロニクル』(東京創元社)レビュー

本日のエピグラフ

 ――物語の中の<探偵>たちは、いかにしてそう呼ばれる存在になったのでしょうか。(「あとがき」、P337より)


 
ミステリアス9 
クロバット9 
サスペンス8 
アレゴリカル9 
インプレッション9 
トータル44  


 周知のように芦辺拓は、<騙り>の物語空間に<語り>のダイナミズムを現前させ、<騙り=語り>によることで、決して単なる“懐古趣味”に堕さない、探偵小説特有の異空間・異次元性、あのあらまほしき独特の手触りを、高密度のプロットで現出させてきた。近年の作品は、作者の思索と冒険(の孤軍奮闘ぶり)が、高度に結晶したものと評価できる。『グランギニョール城』や『紅楼夢の殺人』は、長編という結構もあってか、この異空間・異次元性というものが、<世界>の幻想性というものの基底をめぐる物語、その可能性を内包するまでに昇華してしまった。であるから、両者傑作でありながらも、個人的にはやや物足りない面もあった。前作『三百年の謎匣』と本作は、連作短編集であるが、こちらは、両者とも<時間>というものが、物語空間の内実の核を占める。片や一冊の和紙で綴じられた手記が関わった三百年の間の有為転変、片や<名探偵>の来歴を表す数々の事件に穿たれていた小さいながらも見過ごせぬ穴――。
  木村敏は『時間と自己』の中で、「もの」として見られた<時間>と、「こと」として見られた<時間>の間には、「本性上の差異がある」といった。ひどく単純化していえば、前者はある種の概念として(分析されたものとして)の<時間>、後者は「いまここにあるという現実から切り離すことのできない」、端的な事実性としてのそれである。さらに、木村は「いま」について、それは未来と過去の「あいだ」という“あり方”を示す、という。「いま」が時間性を帯びるのは、「それ自身のうちから未来と過去を析出することによってのみ」である。――森江春策の<探偵>遍歴を物語る四つの事件には、それぞれ事件の核心に係わらないかぎりで、しかし回想するに不可解な“謎”が存在していたことに、森江は気づく。当時それと気づかなかったのは、「もの」と「こと」の<時間>の差異に由来する――それは即ち、「こと」が指し示す事実性とは、端的な“それ”としてしか認識できないが、もし「いま」から析出された過去性に、否応無く「もの」性が付与されるとするのなら、(過去の)事態をスタティックに眺望し分析することができるということであり、それは正しく、探偵小説というテクストに臨む態度に他ならない。<名探偵>森江春策は、“過去”の不可解を解消さすべく、“事件”をあるべきかたちへ「補完」するのだが、紙上の<名探偵>たる森江春策には、「もの」的<時間>の住人たる彼には、その誘惑を拒絶できないだろう――眼前に“タイムマシン”があるのならば。
  であるから、これは、<名探偵>森江春策自身の事件でもある。と同時に、“過去(性)”を表象する、<時間>としてのテクスト、そこに<語り>の臨場感を重んじてきた<騙り>手自身のそれでもある。