後藤均『グーテンベルクの黄昏』(東京創元社)レビュー

本日のエピグラフ

 だがね、いくら焚書をしても印刷機がある限り、邪悪な書物は無限に作られていく……(P238より)

グーテンベルクの黄昏 (創元クライム・クラブ)

グーテンベルクの黄昏 (創元クライム・クラブ)


 
ミステリアス8 
クロバット9 
サスペンス9 
アレゴリカル9 
インプレッション8 
トータル43  


 今更言うまでも無く、ナチスの“亡霊”を扱った作品は国内外を問わず様々に書かれてきたが、スリラーや冒険小説の類ではなく、こと(国内の)探偵小説に限って言えば、なんと言っても鮮烈だったのが、連城三紀彦『黄昏のベルリン』。連城ならではのトリッキーさとリリシズムを前面に押し出したこの作品と、本作は当然創作におけるスタンスの有様がまるきり違うわけだが、歴史小説としての重厚さをまず追求し、その上で、物語の時空間を欧州中世にまで拡げることにより、一編のミステリーとしての奥行きをも確保することを目論んだ作者の意図は、決して空転していない。のだが、物語の前半で提示される二つの不可能犯罪が構成された直接の原因から鑑みるに、もう少しミステリーに徹しても、作者の企図したところは十分に達成されたのではないかと思う。おそらくは、一般的な訴求性を持たせようとしたのだろう。物語は、星野の手記と、戦況や陰謀など星野の外部で進行する事態の推移が三人称で綴られるが、双方の文体のトーンが一様であるため、一連の出来事を俯瞰するポジションを読者に提供しようとする配慮が、星野の手記から推理を進める富井との臨場感を一にすることを阻害していなくも無い。かといって、手記部を徒に旧字などで生硬にすることが賢いとも思われない。ここは、たとえば双方のパートの一方を一段組、もう片方を二段組にするとか、互いに活字体を変えるとかのレイアウト上の工夫が欲しかった。せめて、物語の合間に挿入される、中世のエピソードはページ自体を改めたいところだ。
 福田和也週刊新潮のコラムで、伊坂幸太郎の『魔王』を取り上げた回で、ナチス親衛隊とドイツ国防軍との相克についての日本人の無知について嘆いていたけれど、本作はまさにそれが物語の核心となって展開する。「グーテンベルク印刷機」とは、<情報>の半/反=機密性を暗喩しており、それは同時に“焚書”という(政治的)行為の根源的失効をも意味しているが、この物語はそれをめぐる悲劇でもある。この「黄昏」とは、まさに現代の情報通信環境を指しているのだが、果たして、<ロムルス>は、“焚書”の徹底的不可能の時代において、いかなる<情報>の<帝国>を作ることになるだろうか?