飯田譲治・梓河人『盗作 上・下』(講談社)レビュー

盗作(上)

盗作(上)


 
 『アナン』の問題意識を受け継いだ力作。芸術的・精神的超越性の布置が、創(制)作者から創(制)作“物”へと移される。――本作を批評する際に参照されるのは、言うまでもなくベンヤミンだろう。端的に言ってしまえば、「複製技術時代における芸術作品」と問題意識をある程度までは共有している。ベンヤミンの“アウラ”とは、「いま」「ここに」しかないという一回性もしくは稀少性からくる礼拝的価値のことである。主人公に啓示のごとく創作のヴィジョンが訪れ、周囲の人間たちはもとより、職業芸術家たちにまで感銘を与える。ところが、当人が与り知らぬ先行作の存在で、社会的糾弾の嵐に晒されてしまう。“アウラ”が剥がれ落ちるだけなら、創作者も創作品も忘却の彼方に追いやられるだけで足りようが、詭計によって崇拝を獲得した者は、磔刑に処せられるのである。「複製技術時代」において、“アウラ”が失効することで、芸術は伝統・権威による拘束から解放されるが、かような芸術文化の大衆化の下で、この時代の“資本”が、また神話的権威をこの文化自体に与えてしまう。要は、芸術的・精神的超越性の質が変容を遂げる。「複製技術時代」を可能にした、またはそれによって発達したメディア(とジャーナリズム)が、この状況を出来させるわけである。……しかし、メディアによって煽られた末に、騙られたと思ったとしても、それでは、当初受けた感銘は“贋物”なのか――というのが、著者の問題設定である。つまり、ベンヤミンのいう「ほんもの」性が、芸術作品に内在するものから、鑑賞者のある種の精神活動の問題性へと、移管されている。ここにおいて、「いま」「ここに」しかないという一回性によって定義される“アウラ”は、“いのち”という言葉に変換される。個々の肉体を超えた何億もの思念の総体という極めてスピリチュアルな意味合いを持たせられるが、今さら指摘するまでもなく、これは大衆芸術化時代の新たなる権威の根拠を示唆しているものだ。
  これを肯定的に描くのを批判する意図は毛頭ない。むしろ、本作で確実に保証されるカタルシスは、賞賛されるべきであると思うのだが、そうであるがゆえに、本作のオルタナティヴ、ありえたかも知れぬストーリーに、つい想いを馳せてしまうのだ。――本作は、“いのち”の「キャッチャー」たる主人公のビルディングスロマンを基調としているのだが、三度目の“創作”が世に出る際に、自らの“創作”が「盗作」であるかないか、恐れるのだが、実は、ここに、本作がスピリチュアルな要素を相対化する契機があったのではないか、と思うのだ。“アウラ”は、「いま」「ここに」しかないという一回性に規定されるが、では誰にとっての“一回性”かといえば、何よりもまず、創作者にとって、ということではないか。そうであるとするならば、この“一回性”が否定されるとするなら、それは創作者にとってのアイデンティティ・クライシスという事態に繋がるだろう。事実、物語はそのように展開する。この危難は、上記のようにスピリチュアルな認識で克服されるが、主人公を脅かすもうひとりのヒロイン(彼女は“アウラ”を持つ創作品を作り出し地位を得た芸術家である)との和解が、これを後押しする。――たとえば、自分の“創作”の、そのあり得べからざるオリジナルと目される作品を、本当にそうであるのかないのか、主人公がその所在地を巡り当該作品と接することで、“芸術”の「ほんもの」性の在処について思索を重ねる――という展開で、要は、私は下巻第三部を「本編」と捉えているのだけれども、アイデンティティ・クライシスが自己より高次なものの存在(の認識)によって解消されるという筋道は、芸術家における“天啓”のリアリティを保証はするが、彼/女たちのモチベーション、そのパトスの有様については、括弧のなかに括ってしまう。“いのち”なるものを、しかし、今一度<不気味なもの>として捉え返す視座こそは、数奇な運命に翻弄された主人公だからこそ認識しうるものだったのではないか、と思うのだ。ベンヤミンの境遇に思いを馳せるのならば、なおさら。