田中慎弥『図書準備室』(新潮社)レビュー

本日のエピグラフ

 いま話せるのは過去だけです。未来のことは、その未来を体験して過去にしてしまわないと話せません。(「図書準備室」P15より)

図書準備室

図書準備室


 
 デビュー作「冷たい水の羊」はまだ試行錯誤の段階にあると思われるのだが、表題作は佳作といっていい出来。「私」の一人称ではじまるので“私小説”と思いきや、小説の主要部分を構成する主人公のモノローグはカギカッコで括られ、意表をつく。唯一の瑕瑾は、このモノローグ内で交わされる会話もまたカギカッコが使用(つまり二重カギカッコ)されている点で、ここはモノローグで塗りつぶすべきだった。…………伯母に無為の生活を送っている理由を詰問され、主人公は取りとめもなく<過去>について話し出すが、伯母からは「分かるように話せ」とまた難詰される。これに対する応答が、例えば冒頭に引用したものになるのだけれども、これはラカンのいう「根源的疎外」をめぐる命題を忠実になぞっている。“私”について語ることは、必然的に<私>について騙ることになるのだ。主人公はそれに抗っている。ゆえに、主人公は取りとめもなく<過去>を語りだすが、そのときに個々のエピソードを括り出すときのモメントとなるのが、「目」であり「視線」である。「視線」、即ち“まなざし”とは、<主体>に対して、<他者>が顕現し、覚知される場所である。――冒頭のエピソードで、自分の右目に痛覚を覚えるのは、高校生のときにバスのなかで、とある老女の目を誤って右手で打ってしまった、そのことで謝罪しなかった報いだとする。そこから、今度は中学生のときに交わされた、「世捨て人」教師との戦時下の<記憶>をめぐる会話(というより“闘争”というべきか)の断片が語られるが、この会話のあと、「世捨て人」教師が主人公に“謝罪”したあとに、主人公の登校時の通学路で、「なれなれしくて爽か、いやらしいくらいいきいきしてる」声で「『お早う。』」と「あいさつ」するのを、主人公は「我慢出来ない」と憤り、以後、彼の「あいさつ」を無視し続けるのだ。…………<他者>が顕現し、覚知される“まなざし”という場所が毀損されている。主人公の<過去>語りの場に居合わせた従兄の娘に、不用意に「もし戦争に行けと言われたら私は逃げ出すでしょうね」と口に出すが、「逃げてからどうするの。」と彼女にまぜっ返されてしまう。「まだ過去になっていないこと」を問われた主人公は、「そりゃあやっぱり逃げ続けるしかないでしょう」と返答するが、このとき彼の右目は果たして痛覚に侵されていたのかいなかったか。…………次作が待ち遠しい。