桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』(東京創元社)レビュー

赤朽葉家の伝説

赤朽葉家の伝説



 
 “まなざし”が<他者>の覚知される場所だったら、それでは「千里眼」とはいかなる事象なのか。<主体>が<他者>の領域へと拡張されていく現象か、それとも<他者>が<主体>へ過干渉していく事態なのか。「千里眼の女は夢見がちで、漫画家の女は天性の嘘つきである」。“女”たちは“自伝”を書けない。“女”はコトバを奪われているから。それは、所詮<他者>の物語。この<他者>性を相対化するために、主人公が取ったストラテジーは、実に日本の戦後史の叙述なのである。かくして、スリーピング・マーダーの物語が駆動する。それは、<不気味なもの>に対する再認の作業である。――それで、主人公は果たして「自由」になったのだろうか。「ようこそ。ようこそ。ビューティフルワールドへ。悩み多きこのせかいへ。(中略)せかいは、そう、すこしでも美しくなければ」。「せかい」を「すこしでも美しく」するには、<他者>を「せかい」にどう遇するかにかかっているのだろう。「すこしは千里眼。悪くない称号だ。……ほんとうにそうだとおもしろいんだけどな」。