東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書)レビュー



 
 久しぶりに粘り強い批評を読んだ気がする。柄谷行人日本近代文学の起源』以来の画期をなすという評価はそれほど遠くない時期になされるだろうし、それは十分、正当である。「ゲーム的リアリズム」即ち、「キャラクターのメタ物語的な想像力」が小説という形式と接触してきたときに生まれる「リアリズム」とは、「一回かぎりの生を、それが一回かぎりではなかったかもしれない、という反実仮想を挟み込むことで、はじめて一回かぎりだと認識することができる」という私たちの実存的基底が、「ポストモダン」的環境を経由することによって、その真実性がリアルなものとして迫り出してくる(フィクションの創作における)過程のことで、これは、「キャラクター」が記号的身体でありながらも血を流して傷ついてしまうという、フィジカルな身体性を有する両義性が招来するある種の倫理性を主題として抱えていた、大塚英志が提唱した「まんが・アニメ的リアリズム」の(倫理的な)限界を、そのまま問うている。以前、「まんが・アニメ的リアリズム」における「生身の身体」は<不気味なもの>である、と述べたことがある者としては、「ゲーム的リアリズム」が差し向ける実存的基底が、“有り得たかもしれない”生のあからさまな露出――反実仮想、あるいはある種の可能世界の認識において、その“細部”がありありと現前してしまうような*1事態が、その“生”の選択肢のひとつひとつを、<不気味なもの>(=抑圧を経て回帰した「なじみある、親しみのあるもの」)として機能させてしまうのかしまわないのか、今後の帰趨が気になるところ。
アンダーソンが『想像の共同体』で論じたように、ネーションの形成に、新聞や小説などの活字メディアが枢要な役割を果たしたのは、同一の“言語”(が使用されているという信憑)が、空間性・時間性を超越するからだ。それは、相互に空間的・時間的断絶のある人間たちや出来事などの溝を埋める。無論、はなから“小説”がネーション形成を企図していたわけではなく、ただその虚構が現実の世界に浸透していく過程で、個別的な<読者>にも、想像上の<共同体>への確信が生じていく。この機制を、同一の対象物にコミットすることで、個々の主体からネーションが立ち上がってくる、とするまで抽象化するのだとしたら、「データベース」の成立が、<読者>だけでなく<作者>も、等しく“消費者”レベルで、新しいネーションを立ち上げてしまう、といった事態が出来するのかしないのか――しているのか? ネーションの新しい成立基盤たる映像表現が、どの程度干渉しているのかが気になるところ。…………「物語の主体からメタ物語の主体へ」と感情移入の場所が移動してしまった“物語”のことを、著者は「プレイヤー視点の文学」と呼んでいるが、「選択」することにまつわる悲喜劇に対する共感が、偏狭なナショナリズムや、「「文学」がたどった隘路」に対抗できうるものに、果たしてなるのか。

*1:「現前」を「幻‐前」と表記したほうがいいのかも。