永井均『西田幾多郎 とは何か』(NHK出版) 藤田正勝『西田幾多郎 ――生きることと哲学』(岩波新書)レビュー

西田幾多郎 <絶対無>とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)

西田幾多郎 <絶対無>とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)

西田幾多郎―生きることと哲学 (岩波新書)

西田幾多郎―生きることと哲学 (岩波新書)



 
 後者、藤田のものは、西田哲学の全体像を、一般向けに平明に説いた入門書。…………ということで、関心はどうしても、西田の「皇道」「皇室」に対する賞揚を、どう評価するのか、ということにいってしまうのですが…………うーん、これでは西田哲学を、「皇道」ファシズムから救済できてないっす。「多文化主義」というコトバを出されても、まさにそれこそ「五族協和」「八紘一宇」の思想的核心、というのが現在の評価(のひとつ)ではないですか。うーん…………私は西田の著作はおろか、西田関連の概説書・入門書もロクに読んだこともないんですが(もとより哲学徒ではないし)、それでも、西田の「矛盾的自己同一としての皇室中心」という評価の仕方が、なにを言わんとしているのかが、どーしても気になるわけですよ。「日本精神の真髄は、物に於いて、事に於いて一となる」「元来そこには我も人もなかつた所に於いて一となる」との西田の言を、どうとらえるか。――永井のものは、前期西田哲学(1932年『無の自覚的限定』まで)の、「純粋経験」「場所」「私と汝」という重要キーワードにしぼっての徹底した解説。「私」という「場所」がなぜ「絶対無」なのか。「私」を主格(私は〜〜である)から、与格(〜〜は私である)へと移項させたからだ。述語となった「私」には、どのような述語も付け加えることができない。「私」という意識には、「於いてある」対象が存在しない。「つまり、絶対無においてあるのだ」――「それでもそれが(ともあれ例えば)「私」などと言われるのは、超越的主語面が超越的述語面に包摂され、そこに原初的な判断が成立しているから」と永井は言う。このあと、この「私」(という「無」の「場所」)の前には、「汝」(という、全く別の「無」の「場所」)という存在が、「言語」を介して登場してくる――即ち「汝が可能なら言語が可能だし、言語が可能なら汝が可能である」と永井は述べる(だけれども、なぜこのように、「私」と別の他人が「相理解」できるのか、という問いに答えられていないと、永井は留保をつけるが)。…………さて、それでは、西田にとって「皇室」とは、何だったのか。とりあえずは、「私」という「絶対無」の「場所」から、<近代=日本>というパースペクティヴを介して、<歴史>を閲したときに、「物」として現前したものではなかったか――だから、前段の「日本文化の特色」として「自己自身を否定して物となる」、その象徴が「皇室中心」ということである、という認識の因果関係は実は逆だったのではないか、と思うのだけれども、どんなものなんでしょうか。――それでもって、このように「皇室」が立ち表れてくるのだとしたら、やはり、日本近代期における<メディア>との関わり合い、というかその影響の度合いが気になってくるのですが。