菊池英博『実感なき景気回復に潜む金融恐慌の罠』(ダイヤモンド社)レビュー



 
<市場>が“正義”とみなされるのは、なぜか? それは、<市場>が被う領域の“住人”たち(これは、いわゆる「プレーヤー」とは違う)に、“競争”を通じて、適切なモノ・サービスが分配されるからである。社会学的にいえば、<貨幣>とは個々の“商品”に対する投票権という意味合いを持つ。消費者に支持されない“商品”は、<市場>から撤退する。であるから、“競争”を維持しなければ、<市場>的正義は実現されないのだ、基本的には。ここで、<市場>における独占・寡占状態を解消すべき超強制力の存在が不可避になる。――という教科書的なことを考えても、248兆円という日本の三大メガバンク合計資金量を超える総資産を持ち、店舗数(郵便局)においては民間銀行・信組・信金をすべて合わせた数をはるかに超える「超超メガバンク」たる「ゆうちょ銀行」誕生後の日本経済は大丈夫なのか、との疑義は出てくるのだ。ましてや、民間銀行には貸し出す資金があり余り、企業への資金供給にはなんの支障もない現状においてをや。さらに、「ゆうちょ銀行」が外債投資の比率を高めて、国債を買わなくなると、これによる国債価格の下落は、時価会計方式が導入され、自己資本比率の枷がはめられている国内銀行は、一挙に信用収縮に見舞われることになる。ただでさえ、銀行は大量に株式を保有していて、株価の下落が信用収縮のリスクの一因になっているというのに…………。著者の処方箋は、いたって明解で、銀行本体から国債を切り離し、株式保有を禁止し、時価会計をやめる、ということ。――ここにいたる下地をつくったのは、「市場原理主義者」たちだけれども、彼らが、<市場>に“正義”という視点を持ち込まずに、<市場>をイデオロギー化したことが本書を読むと如実にわかる。とりわけ、金融市場という<市場>は、ある意味で<市場>を支える<市場>でもあるから、<市場>における“正義”を実現する、また別種の強制力が必要だろう。金融恐慌を回避させるために「公的資金」を注入すること(「市場原理主義者」は、税金の浪費と言いつのったが、当該行の株式を買い取るだけなので、その銀行が健全化すれば、当然プレミアム付きで戻ってくる)などが、それにあたるけれども、無論通常の<市場>における“正義”の実現のための強制力も必要で、たとえば金融機関の独占・寡占状態の解消は、実は金融恐慌回避のためでもあるのは、上記のとおり(「市場原理主義者」だけでなく、日本をオーバーバンキングとする論者は多いが、著者は明確にそれに反論している。金融機関の分散が、システミック・リスクを軽減するのだ)。…………本書は、過去十年間の「平成金融恐慌」の総括としても、また、アメリ大恐慌からアジア通貨危機にいたる「金融恐慌」の歴史の概括としても、経済の素人にも十全に把握できるもの。平成「構造改革」が、日本経済における「文化大革命」であったことがわかる良書。いずれにせよ、「いざなぎ景気」を超えたと言われる現在においても、GDPデフレーターが依然としてマイナスを示し、可処分所得、貯蓄率、さらには「1人当たりの名目GDP」の国際順位も落ち続けている日本の現況を、直視しなければならないだろう。