萱野稔人『権力のよみかた』(青土社)レビュー

権力の読みかた―状況と理論

権力の読みかた―状況と理論



 
ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』の副題は「ナショナリズムの起源と流行」だった。(90年代の)日本の思想状況においては、「国民国家を批判することで、ナショナリズムをも同時に批判」することが、定式化されたわけだけれども、著者は『国家とはなにか』で、<国家>をそれ自体自立した運動体としてとらえ、組織化した暴力を用いて“税金”を徴収して、その“税金”を使い再び暴力を組織化していく運動を、その本質とした。本書から引けば、だから、「国民国家ナショナリズムは相互に依存的な関係にあるとはいえ、両者の外延はおなじではない」のである。この<国家>は、王・君主による支配から、近代にはいると、革命期を経て、“国民”による<国家>の支配、即ち、「暴力」を行使する側とされる側が一致することになる。つまり、<国家>が「脱人格化」されたわけで、この「脱人格化」こそ、<権力>が維持されるのに寄与するのだ。…………「“国民”による<国家>の支配」とは、換言すれば、<国家>が自らを維持するため、“国民”(の富)を必要とする、ということである。“国民”というファクターの必要性から、たとえば、社会保障の充実に<国家>は腐心する。ところが、産業構造の転換、要するにグローバリズムの進展によって、自国の多国籍企業の活動の保障に<国家>の重点は移っていき、つまりは<国家>が“国民”を見捨てるという「脱国民化」の動きが必然となる。ということで、この見捨てられた“国民”が、右傾化ポピュリズムの基盤となるのだが、そのときの“国民”の要求は、文化主義的なレイシズムのかたちをとってしまう。なぜなら、我こそは<国家>と一体性を求むべき“国民”であるという主張だからだ。――しかし、それが、<国家>の「脱国民化」に、ますます構成的な役割をはたしてしまうという逆説が生まれてしまうのである。*1…………と、以上が、現在の諸情況に鑑みた、著者の見立てである。著者は巻末の「フーコーの方法」で、「権力は知と協働しながら、社会を編成する」として、「権力=知」などとする一般的なフーコー理解を斥けている。そして、「知は力の関係としての権力を一定の形態のもとへ統合する」。このような<権力>が、私たちの<身体>を「政治的テクノロジー」の対象として取り扱うわけである。

*1:要するに「社会保障」としての「セキュリティ」が、「治安(軍事)」としての「セキュリティ」に、<国家>によって読み替えられてしまう、ということなのだが、生存の危機に瀕した“国民”が、このような<国家>に欺瞞され続けるだろうか、という疑念がある。ことヨーロッパにおいては、<革命>の歴史的経験は、いまだ潜在的脅威として存在しているのではないか。<革命>が<国家>にとって恐怖なのは、いうまでもなく、現在の<国家>の富の収奪システムを否認するからだ。