批評的闘争について



 ある評論家が、自分のウェブ日記に、いわゆる「大量死」理論について批判的に検討した文章を集中して載せている。ヴァン・ダインの胡散臭さを指摘した某評伝を紹介するとともに、シュルレアリストに影響を与えたのは、「ハードボイルド」に括られることになる英米作家たちだったことを実証している。それはそれでいいのだけれども(勉強になります)、ただですね…………

第一次大戦の戦場となった国では、その未曾有の経験が、さまざまな反応を必然化した。ロシアではボルシェヴィキ革命が起きた。ドイツでは、ナチズムの勝利に至る社会不安が醸成された。フランスでも共産党ファシストが対峙し、シュールレアリスム運動が起こり、ナチズムに帰結したハイデガー哲学が青年知識層に広汎に受容された。
 大戦が生産した無意味な屍体の山に対して、それを新たに意味づけ直さなければならないという衝動が、各国で普遍的に生じた。共産主義ファシズムも、表現主義も、シュールレアリスムも、またハイデガー哲学も、そうした磁場において大衆や知識人の心を掴んだのだ。
 (……)
 犯人は被害者を葬ろうとして、緻密な犯行計画を練る。そのようにして殺害される人間は、戦場で偶然のように殺された無数の死者よりも、はるかに「人間的」に扱われているのではないか。さらに被害者の屍体は、犯人の行為を再現し追体験する探偵の推理により、第二の光輪を与えられさえするのだ。探偵小説は、第一次大戦のグロテスクな屍体の山が必然的に喚起した、その隠蔽形態であり、同時に表現主義シュールレアリスムハイデガー哲学に対応するだろう、その不可避的な表現形態でもある。
 第一次大戦の経験から直接に生じた、二〇世紀的な時代精神との内的関連を見ない本格探偵小説=ゲーム論は、不可避に凡庸なものたらざるをえないだろう。(……)ヴァン・ダインの倒錯した情熱は、二〇世紀の時代精神が不可避にもたらしたのである。
(笠井潔『探偵小説論 Ⅰ』「序章 探偵小説という時代精神」P20〜21より、一部漢字表記変更)

(……)探偵小説は「芸術」ではない、「パズル」なのだと断定したとき、ヴァン・ダインは一九世紀的な人格性をパズルの項に還元する非情さの感受において、その時代的な必然性に認識において、塹壕戦から生じた二〇世紀精神に共鳴していた
(同上 P52より)

大戦間に発展をとげた探偵小説は、その精神を同時代の前衛芸術運動と共有する。(……)
 しかし探偵小説は、ダダイズムなど大戦間のアヴァンギャルド芸術のように、人間概念の破壊を正面に掲げたものではない。それは、既に存在しない「人間」なるものに人工的な二重の光輪をもたらすことにおいて、瞬間的で虚構的な、しかも劇的な復活を巧妙に演出するのだ。(……)
(笠井潔『探偵小説論 Ⅱ』「第一章 世界戦争の小説形式」P26より)

(太字強調は、引用者)

 と、笠井潔はいっておるワケで。…………「大量死」理論の“盲信”者と言われようが上記の引用をしたのは、単純に、議論が混乱するのを防ぐことを企図するのにほかならない。あえて、と別段言わなくても、この評論家の提示したパースペクティブと、笠井のそれは、「第一次大戦」という<現実>を、もしくは、「第一次大戦」以後という<現実>を、いかに“小説”が代理=表象するかという問題意識において、少なくとも二つの潮流があったということを示すということで、両立する、あるいは補完的な関係にあると言っていいだろう。*1
 なぜ、このようなことを記すのか。早い話、笠井(とその同伴者たち)が、ミステリ批評において与えた知的負荷に、耐えられなくなった素朴なミステリ読者が、声を上げ始めた、ということだ。無論、何人にも、「わからない」と発話する権利がある。問題は、それが、感情的な闘争になったり、根拠なきシニシズムに直結する場合である。
 例えば、この評論家は、笠井が「探偵小説という時代精神」で記した「二〇世紀的な病院での死者は、二〇世紀的な戦場での死者に、その死の無意味性において対応している。」というくだりを「んな、馬鹿な」というツッコミをいれているのだけれども、そのあと、ハメットがスペイン風邪にかかったエピソードを紹介して、次にこの「スペイン風邪」が当時の「全人類の実に50%以上」が罹患した事実を挙げて、「戦場」だけでなく「病院」や自宅でも大量に人が死に、それを以て、戦禍とも病禍とも無縁だった法螺吹きヴァン・ダインが、「大量死」の精神を受け継ぐはずがない、と論が展開するのだが、私には、彼の紹介した「スペイン風邪」の事実が、「二〇世紀的な病院での死者は、二〇世紀的な戦場での死者に、その死の無意味性において対応している」という命題を実証しているものにしか見えなかった。笠井の当該文章を引用した法月綸太郎も、これでカラまれては、ア然とするほかなかろう。
 今年は、ミステリ評論・研究の力作が相次いで刊行された。他方で、「そんなの関係ねぇ」という声も徐々に高くなりつつあるようだ。来年は、ミステリ批評においてある種の正念場を迎える年になりそうな気がする。

*1:その際、<現実>を代理=表象するものとして、「屍体」を選択した者は「探偵小説」に、「文体」=ナラティブを選択した者は「ハードボイルド」に傾斜していったのだろう。