河野哲也『善悪は実在するか』(講談社選書メチエ)レビュー

善悪は実在するか アフォーダンスの倫理学 (講談社選書メチエ)

善悪は実在するか アフォーダンスの倫理学 (講談社選書メチエ)



 
アフォーダンス理論から敷衍して、「道徳」の主観主義、もしくは一般的・普遍的な価値観によるアプローチに対して、個別性に則った「道徳」的価値の客観主義、即ち、「道徳判断とは、その行為の影響を受ける側の視点に立って判断することである。そしてこの判断には、影響を受けた者とのコミュニケーションが不可欠である」との立場を主張する。ここで超克されようとしているのは、著者の主張の裏返しの世界、<自由>が担保されるのは個々人の「プライベート」のみで、公的空間は「法的なもの・一般的なもの」に(それを解釈する者たち=専門家に)独占されるに任せる<世界>である。それは、「道徳」が「法化」=法的規範性を帯びるのと軌を一にしている。「道徳」の規範性の源となる互酬性が、法的社会(国家)に吸収されるからだ。そして、この権力装置のもと、個々人の多数性は無視され、個別的な互酬的正義(報復、復讐)は抽象的な法規範へ、互酬的関係性(助け合い)は法的な権利義務関係へ、変換されるわけである。著者はここから、ケアの倫理学、ニーズの政治学へと話を進めて、メディエイターとしての「国家」*1の役割に注意を喚起させる。*2著者は、最後に、自身の構想を、それでもサド的自然主義に対抗しえたか、と疑問を付すが、「社会化を拒否する人物たちのニーズ」は、とりあえず<文学>が吸収するしかないだろう――か。

*1:この場合は、「行政」と呼ぶのが相応しいと思われるが。

*2:この文脈で、いわゆる「修復的司法」が取り上げられるのだけれども、端的に、凶悪犯罪においては、「互酬的正義」が、「修復的司法」を許さないケースもあるのではないか。殺人はいうまでもなく、例えば、強姦などの暴力犯罪は、被害者は加害者と関係を切断したいと考えるのではないか。「修復的司法」の試みが著者の文脈どおりの企図を実現させるのならば、「修復的司法」の適用は限定的であるべきだと思われる。