坪内祐三『アメリカ 村上春樹と江藤淳の帰還』(扶桑社)レビュー

アメリカ 村上春樹と江藤淳

アメリカ 村上春樹と江藤淳


 
 サブタイトルに掲げられている二人の文学者は、もののみごとにすれ違った。村上春樹がデビューする半年前に、江藤淳毎日新聞文芸時評を降りていた。『風の歌を聴け』を江藤は論評しなかったが、同時代的作品である村上龍限りなく透明に近いブルー』、田中康夫『なんとなく、クリスタル』には言及しているのは、周知のとおり(そして、前者を貶し後者を絶賛した江藤の態度から、独自の批評的主題を汲み出したのが、加藤典洋の『アメリカの影』である)。著者は、すれ違ったこのふたりの文学者を、“アメリカ”からの「帰還」者という位相で、相対させる。この“アメリカ”とは、いわゆる個々の固有名詞に代表されるアメリカ輸入文化ということから、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」の浸透にいたるまでの、我が国におけるアメリカ文化と、現実の彼の国との差異の経験、ということでもある。“アメリカ”からの「帰還」した、というのは同時に何らかの「回心」を得た、ということでもあった。それが、村上春樹における『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の翻訳であり、江藤においてはその後の軌跡が何よりも雄弁にそれを物語るが、「フォニィ」という言葉で、さらに両者の意識のありようを、著者は繋げる。江藤淳は、アメリカの学生に、日本における「書生」たちの幻を――明治日本の幻影を見る。後年、江藤は「アメリカの影」に無自覚な日本の作家たちを論難するわけだが、<近代>という時代精神が、そのダイナミクスが、政治運動から消費行動にとって替わられる、とりわけ、日本においては、“アメリカ”が日本的スノビズムのうちにとらえられた、そのことが抱える屈託が、このふたりの文学者の態度に、ある類型として、それぞれに示されているのかもしれない。著者のモノローグ部分が、対象に対して、有機的な距離感を与えている。