野矢茂樹『大森荘蔵――哲学の見本』(講談社)レビュー

大森荘蔵 -哲学の見本 (再発見 日本の哲学)

大森荘蔵 -哲学の見本 (再発見 日本の哲学)


 
 「後期大森哲学における過去論」、その「到達点は(…)一九九五年「殺人の制作」において示される」と著者は言う。この論文が載った『現代思想』1995年2月号の特集は「メタミステリー」、法月綸太郎の「初期クイーン論」が掲載された号であり、配列としては、大森論文の直後に法月論文が載っていて、法月がプレッシャーに感じたかどうかわからないけれども、この大森論文の方は、「ミステリー」と「科学」は「過去が実在する」という大前提があって成立する、というのを議論のとば口にしているが、「ではいったい過去性はどのようにして理解されるのか。それこそほかでもない、動詞の過去形の了解によってである」と大森は主張して、この「過去形命題の意味」は、「人間社会の意味制作の成果なのである」と結論する。要するに、「過去形命題」がどんな場合に真とされるのか、その判断基準、それが「人間社会の意味制作」に依っている、ということである。著者は「(…)制度的に真と承認された過去物語こそが、現実の過去世界とされる」と大森の結論を換言して、著者はこれに対して異論を述べるのだけれども、さて、「ミステリー」、探偵小説という「物語り」が駆動する、そのモチベーションを措定するのならば、それは「過去」というものに対する欲望のありようをめぐるものになると思われるが、これは必然的に「過去形命題」を「真と承認」する「制度」それ自体をどう表象させるか、あるいはこの「制度」自体に言及したり、もしくは加工したりする意識をもつ探偵小説は、まさしく“メタミステリー”と呼ぶしかない存在であるのだろう。…………ということはさて措き、一般読者向けに大森荘蔵の入門書が書かれたのは、これがほとんどはじめてではないか。著者の簡明な文章で、この哲学者の問題意識の推移が、手に取るように理解できる。適宜、著者自身の見解が挿まれているのも、“問題”に対する読者の意識を拡張させる役割を果たしている。大森は、いわゆる「他我問題」に対して、「自分と他者との間にある非対称(鉄壁の孤独)」を示唆して、この問題と「訣別」するが、しかし、「言葉」というものが「人間社会」(=“人‐間”)を流通しなければ「意味」を成さないものである以上、独我論者の“分析”は、ある空白を遺さざるを得ない。著者が本書の末尾で、大森の「訣別」に対してする批判は、そんなことを感じさせるが、この空白は、語りえぬものというよりは、何事かを語らせるものとして、哲学者に存在しているのだろうことも、深く感じ入った。