ニッポン無責任時代



東浩紀桜坂洋『キャラクターズ』の刊行後に、ああいうことが起こったっていうのは、やっぱり災難だったと思うわけですよ。「そして、彼が朝日新聞社ではなく秋葉原に突っ込んだという事実を前に、いささか自分の想像力の限界を感じたりもしました」という東氏の述懐は、だけどそんなこと反省もしようがないじゃん、と思うわけだし。んでも、たとえば、秋葉原という“選択肢”のトナリに、新宿とか渋谷とか六本木とか置いてみれば、事態はもう少しはっきりするかも。ある種の“悪意”の視野に引っかかった、“場所”としての秋葉原。ただ単に、若年下層労働者のアモルフな怒りに駆られたテロという“物語”に還元して、それで正解なのか。現在の紛れもないアジールに対する攻撃は、聖域なき社会の流動化を促す、ネオリベ的欲望の線にそって、なされたものではないか。キャラ化さえかなわぬ、労働力という抽象的な規格商品としての人間。テロルの欲望に、権力側は果たして不気味さを覚えるのか。…………いずれにせよ、災厄は抑止されなければならない。が、無差別殺人犯が、平気でオレを死刑にしてくれと言い放つのが現在。自分の命と引き換えならば、全く無関係な他者の生命を収奪してもいいなどということを考える脳垂れ人間たちは、何のことはない、死刑を逆手にとって、徹底的に責任を負うまいとしているだけだ(何せ、自分の命でさえ、国家に処分させようとしているのだから!)。この手の犯罪者(予備軍)を牽制するには、しっかりと犯罪に対しての“責任”を負わす体制がつくられなければならない。参考になるのは、中嶋博行がしている近年の議論で、『この国が忘れていた正義』などで、「犯罪賠償刑務所」や、犯罪加害者に対する被害者(原告)の損害賠償債権の強制執行を目的とする「公設取立人」の設立を唱えている。システムの具体的な運用はともかく、コンセプトとして、刑法犯にかかわり発生した被害を、加害者が完全に弁償すること、これには自己破産などの一切の免責は認められない、という体制を、早急に整えなければならない。やはり、“責任”が具体的に重みをもって迫るのは、具体的な金額と、それに見合う労働量であることは、認めざるを得ない事実である。今回の事件の場合、まともに被害者(遺族)たちの主張が受け入れられたら、数億円のレベルである。これを、“労働”で返済するというリアリティは、脳垂れどもにも、十分想像可能だろう。

キャラクターズ

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この国が忘れていた正義 (文春新書)

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