“不可視”なものの政治学



 本田由紀の最新コラム集『軋む社会』は、そのタイトルが、現在の閉塞状況をよく表している。なぜ「軋む」のか。それは、「家族‐教育‐仕事という三つの社会領域間の循環関係の破綻」が原因である。要するに、わが国における労働力の再生産のメカニズムが、ネオリベ体制の下、破壊させられているのである。従来より、わが国では、公的な福祉が、企業福祉(生活保障)や家庭(サービス)に代替されてきた、とは、指摘されてきた。ところが、企業側の「福祉」切り捨て、もしくは低賃金・不安定雇用の常態化は、そのツケを家庭に押し付け、さらに公的なセーフティネットが整備されていない状況では、とりわけ親世代に依存してきた若年層は、その親がいなくなった時点で、瞬く間に社会下層もしくは貧困層に転落してしまう(もともと「家庭」を頼りにできない若年層はいわずもがな)。

 この社会的な逆生産的なメカニズムが、主流派経済学では掬い取れない。たとえば、大竹文雄の同じく最新コラム集『格差と希望』を一読すれば、それはあまりにもあからさまになる。大竹の示す(世代)格差是正策は、市場競争*1を促進させて労働市場を流動化させることで「既得権」層を掘り崩し、同時に所得税率や資産税率を上げて「若者」対策に回す、というもので、経済学的に全くの正論であるだろう。――しかし、本田の前掲書でふれられているように、低所得層の若者たちが、自分の親や家族に縋っている以上*2、「既得権」層を流動化させれば、この「若者」たちは困窮するだろうし、たとえ所得の再分配がきっちりなされたとしても、この流動化がこれら「若者」の正社員化を促進させる保障はない*3

 本田は、収録されているエッセイ「<不可視化>と<可視化>」のなかで、「正体が見えない、つまり現実が<不可視化>されている原因は、現実を覆い隠すようなまやかしの言葉が跋扈しているからだ」と言っている。このあと、本田は、小泉・安倍政権のむなしいスローガンを「まやかしの言葉」として挙げるが、経済学の「言葉」が「まやかし」とならないか否かは、本当に今現在、深刻に問われている、と思う。少なくとも、本田が提示する教育・労働領域にまたがるプランに対して、経済学的な言説が、どれだけ「現実」に迫れているかは測られたほうがいい。…………本田はさらに、<不可視化>の他方で、過度に<可視化>されているものがあるとして、その最たるものとして、個々人の「有用性」を挙げる。能力の有無が、歪んだ価値基準で決定され、個々人がふるい分けられ、「有用性」のある者は極限まで働かされ、ない者は社会的に疎外される、ということだ。この<不可視化>と<可視化>の補完関係は、“社会”なるものの否認を意味している、と見るべきだ。サッチャーが、社会なんてものは存在しない、とのたまったように。…………“経済”と“個人”がダイレクトに連結して、“経済人”として生きよ、と唱えられる。この規範から外れた者には、様々な言説レベルで、排除の圧力が――この限りにおいて、“社会”は呼び出されるのである。

 森政稔『変貌する民主主義』は、自由主義、差異の政治、ナショナリズムポピュリズムなど、現代におけるデモクラシーの、思想的変遷を俯瞰する良著。民主主義は最終的に、「他者」へと開かれるのが必然の流れであることが示唆されるが、「民主主義にも市場的なものの考え方が浸透しているというのが現実である」。「市場的なものの考え方」は、「他者」を包摂する代わりに、「他者」の“他者性”、「他者」の“他者”たるゆえんを、要するに「商品化不可能な価値」を排除する。「他者」が画一化されるのだ。「商品化不可能な価値」を排除するしか、「統治」が達成されないのか。「商品化不可能な価値」の毀損が、“社会”の再生産のメカニズムを阻害しているのは明らかではないだろうか。社会なるものは、存在しているのである。

軋む社会 教育・仕事・若者の現在

軋む社会 教育・仕事・若者の現在

格差と希望―誰が損をしているか?

格差と希望―誰が損をしているか?

変貌する民主主義 (ちくま新書)

変貌する民主主義 (ちくま新書)

*1:「戦争」、ではなく(笑)。

*2:労働政策研究・研修機構の調査によると、2006年時点では、都内に居住する18−29歳のアルバイト・パート男性(平均年収は174万円)の、四人に三人が親元に住んでいる。

*3:リフレ論者も含めて、景気が回復すれば“格差‐問題”は解決する、と合唱しているが、正確な命題は、「景気が回復すれば“格差”は“問題”とならない」である。ゆえに、「上げ底」「上げ潮」なのだが、このアゲアゲ戦略が、“格差”的不安を果たして解消するのかどうか。“格差”的不安が将来的不安に直結すれば、消費に火がつかないのは明らか。この命題の誤認は、<不可視化>の欲望が端的に表れ出たものではないか。