完璧の母



 宇野常寛ゼロ年代の想像力』は、「九五年の思想」〜「セカイ系」のラインを葬送する企図の過剰性によって特徴づけられている、と取りあえず見られるのは仕方のないところで、宇野が目論む、ゼロ年代的「決断主義」を「むしろ祝福し、めいっぱい楽しみながら克服する」文化的方向性を、総体として肯定し賞揚する批評的戦略の、その毒の部分が、現在の文化(批評)的状況の怠慢を穿っているとすならば、なおさらそうである――本当は、賞揚された宮藤官九郎木皿泉よしながふみ等の作者、テクストの間の差異性を、さらに追求するのが、本書の問題意識を引き受けるのに必要である作業であるように感じる。が、本書のコアをなすのが、実は第十章「肥大する母性のディストピア」における母性批判なのではないか。ゼロ年代的「決断主義」を回避したサブカル批評が、「おしなべて父性の抑圧に対する(…)底の浅い批判と、その欺瞞を圧倒的な力で包み込む母性の重力への決定的な鈍感さ」を共有しているとしている以上は。この「母性」は、「「〜である/〜ではない」というだけで無条件に承認を与える」権力性であり、この「〜である/〜ではない」という意識で支えられる「キャラクター的実存」への依拠は、必然的に排除の論理、もしくは敵と味方の論理を呼び込むだろう。「母性」的権力性から「キャラクター的実存」の問題性へとつなげる論理の筋運びは、シンプルであるがゆえに説得的である。本書では、この点においてこれ以上の追究はないけれども、本書のテーマが、いわばコミュニケーション的成熟の倫理性を説くのが主眼とされている以上は如何ともしがたいだろうが、しかし決してこれが補完的な論及ではないはずである。
 斎藤環『母は娘の人生を支配する』は、母‐娘関係における「母殺し」の不可能性に迫ったもので、この本においても、主として女性作家のものがメインになるが、数々の物語的テクストが引用される。「母殺し」の不可能性について、「男たちの共同体」=「大文字の社会」から抑圧を受けた女たちは、そのすき間に「小文字の社会」ともいうべき共同体を作り上げ、そこでは「永遠に殺しあうことなく関係を深めあう」、そのような力学が働くのを理由のひとつに挙げたうえで、母が娘を支配するメカニズムを、まず彼女たちの「身体的な同一化」の機制を指摘して、その同一化が、「言葉」によってなされるとしている。即ち、「娘へと向けられたはずの言葉が、実は願望も含めた自らを語る言葉でもある」。母の身体性が、娘へと伝達される結果、「娘たちは、すでに与えられた母親の言葉を生きるはかはない」。――斎藤の示す処方箋は、母‐娘関係における「支配‐被支配」の関係性の欲望を克服することがコアとなるが、それは「母の言葉」の意味的な「重み」を、出来うるかぎり軽減することが、実践的レベルの課題となること、そのためにも第三者の役目が、「母‐娘関係」を開かれたものにするのに重要になることを、斎藤は示唆する。…………さて、この「母‐娘関係」の克服のプランが、「キャラクター的実存」克服のためのそれに、類推できるものだろうか。宇野のいう「母性」は、「「〜である/〜ではない」というだけで無条件に承認を与える」権力性のことであり、これは、「実は願望も含めた自らを語る言葉」を子供に向けて話す「母親」に類比できる、とはいえるだろう。本当にこの「キャラクター的実存」を支えるのが「母性」であるとしたら、やはりこの「母性」には、“父”の権力性がインストールされている――去勢する“母”というイメージが立ち上がるわけで、ここにおいて、「母‐娘関係」の問題性は、「母‐息子関係」のそれにも適合できるということだ。ここで、ふたたび斎藤の本のほうに戻ると、斎藤は一番最後のところで、近藤ようこ『アカシアの道』が取り上げているが、この物語の分析で、斎藤はそのラストシーンに読者の注意を喚起する。「無意味さに開かれたコミュニケーション」。「母の言葉」の“意味”が無化される情景が、「複雑な感動」をもたらす。この場面が暗示するのは、宇野的なコミュニケーションによる成熟を重視するスタンスのオルタナティブ、「母‐娘=母‐息子関係」を、その内実を、まさに脱構築することによる、関係性の内側からの編み直しということである。去勢する“母”のファルスの不能化、といってしまえば、まあ身も蓋もなくなるけれども、果たして、現在のセカイ系的実践が、このような戦略を取っているのかどうかは、分かりませぬが。

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス)

母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス)