昨年は斉藤環の文芸批評が二冊刊行された。精神分析的観点から批評理論の確立を目論んだ『関係の化学としての文学』は、中上健次論はさすがにスリリングなのだけれども、総じて、ある理論モデルからトップダウン式に作品が解析されていくのが、どうにも退屈で。批評集である『「文学」の精神分析』のほうがまだ手の内を明かしてないだけ、面白く読めたけれども、その後出たジェンダー分析の入門書『関係する女 所有する男』には、『関係――』で披露された理論モデルのさらに原型部分がさらっと触れられている。要するに、やおい作品においての「「攻×受」という関係性は、(…)関係性のエロスにおける基本中の基本ということになる」。タイトルにもある通り、男性性は「所有」原理に侵されており、女性性は関係性=「他者の享楽」に溺れる。しかし、ある女性評論家の「恋愛関係は“同性間”においてしか成立し得ない」という述懐が、「ジェンダー以前の、純粋な関係性のエロス」という文脈で引用されるとき、確実に削ぎ落とされる何かがある。…………円堂都司昭の栗本薫論には、栗本=中島梓のやおい小説への自己分析にも言及があるが、「やおい小説とは、女性が男性を選別する視線で作品世界を作り、(…)読んでいる自分が選別される存在であることから逃避できるのだ」という栗本=中島の認識には、どう見ても「所有」の影がくっきりと浮き出ている。やおい小説において「女」が排除されるのは、斉藤によれば、「男」はペニスとアナルを所有するがために、「攻×受」相互においての身体的互換性をもつものの、「女」の存在は「虚構世界の均質性に強い違和感をもたらすから」である。対して栗本=中島の認識では、男たちによる競争社会=「現実のトーナメント世界」のエコノミーの「商品」たる「女」たちを排除するのは、「現実――」と背馳した「愛のトーナメント世界」を構築するのに必要不可欠だった、ということだ。プリミティブなフェミニズム的遠近法だと、栗本=中島を笑うことができるだろうか。「愛のトーナメント世界」は、逆説的に「所有」に憑かれた世界である。ということは、「関係性」から解放された世界でもありはしないか――あの「他者の享楽」から! 「恋愛関係は“同性間”においてしか成立し得ない」という述懐は、もしかしたら、この「同性」を、自己の延長もしくは自分の双子と露骨にとらえるべきかもしれない。…………やおい世界には、確かに「他者の享楽」の刻印が、ありありと浮き出ているかもしれない。が、それを書いている“主体”は、何者なのか。“作者”とは、いったい何者なのか。*1
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*1:たとえば、『翼あるもの』文春文庫版「文庫版のためのあとがき」を読まれても、何か示唆を得ることができるはずだ。