三津田信三『どこの家にも怖いものはいる』(中央公論新社)レビュー



 ホラーの定型的プロットは、日常を攪乱する表象をバラ撒いたうえで、さらに物語の結構それ自体を不条理な領域に追いやる、といったものだろうが、作者の場合は、条理と不条理の領域の往還に、小説世界そのものの揺らぎを感得させる。つまりは、そうやって外部性を小説に召喚させるのだ。こういった方向性は、作者自身が試行錯誤しながら、その道を切り開いているようで頼もしいし、小説の可能性を見出してくれているという意味で、優れて生産的だ。量産型ホラーが、コケオドシを費消しているように思えてくるのなら、なおさらそう感じる。