“容疑者”Xの再審

今回の文章は、『容疑者Xの献身』の内容に触れております。未読の方はご注意下さい。

 『ミステリマガジン』7月号をパラ読みしてみると、まだやってましたね『X』をめぐる論争が。先月号で、二階堂黎人の再反論が掲載されていたので、ひとまず仕切り直しとおもっていたんですが――まあ、『X』の高評価の大噴火が小泉自民党の歴史的大勝とならぶ「二〇〇五年の「二大一人勝ち」」だという冗談には、「冗談以上のものがある」という笠井潔の推断には、私は肯えるところであるし、それどころか日本ミステリ史における<事件>であるとさえおもっているので、とことんやってほしいんですが――しかし、なんですな。この種の論争に口出しする第三者の紋切り型になってしまうんですが、「どうにも議論がかみあっていない感じがする」。理由は明白で、要は二階堂が小説(作法)の技術論としての<本格>観を述べているのに対して、反論者とりわけ評論家サイドのそれが、文学論としての<本格>観を以て対抗したため。二階堂の提示する技術論をおさえたうえで、文学論を展開したらよかったのだけれども、肝心のところをかわして立論した感が拭えない。まあ最も、最初の(二階堂のウェブ上でなされた)巽昌章の反論で基本的に事足れりとして、反論者の焦点が、(もともと反論者サイドにいた)笠井の「難易度の低い<本格>」論、「ホームレスの見えていない読者」論に対する反駁に設定された、ということなのだろうが。これに、二階堂は東野圭吾を<本格>から排除しようとしているといった意識があれば、なおのこと。――興味深いのは、笠井をはじめ、小森健太朗我孫子武丸野崎六助と、<作家>サイドは「難易度の低い<本格>」論に大なり小なり同調しているのに対して、<評論家>サイドはこれに対してアイロニカルな態度を以て対抗していること。「難易度の低い<本格>」に対して、『X』は(直木賞受賞はともかく)各ミステリベストテンの首位を独占するほど「難易度の高い<本格>」であると真正面から論駁していない。<評論家>サイドは、各人“石神”という得体のしれない化け物に対して、笠井の区分でいう「一九世紀人、二〇世紀人、二一世紀人」というパーソナリティを与えるが、それが笠井が指摘するようにゾーニングコースになっているかはともかく、“石神”という得体のしれない化け物が「高次な統一に到達することもない」複数の人格が析出されてしまうのは、「難易度の低い<本格>」批判に対抗するに足る超越論的立場をそれぞれ仮構しようとする、各人の思案の産物である、という疑念はどうしても払拭できないところだ。「難易度の低い<本格>? そんなことは知っているよ。だけれども……」という潜在的な言表を共有しているという意味で、アイロニカルな態度を取っているということなのだが、無論、文芸批評のオーソドクシーといえばそうであるわけだけれども。小森が、『X』を支持するものは<本格>の衰退に加担していると難じても、私は<読者>を啓蒙しようと思っていない、と肩をすくめられるだけだろう。…………翻って、二階堂の論旨を、こちらでひどく単純に抽出してみると、要するに、二階堂は「湯川の推理は想像である、証拠がない」といっているわけで、それが小説に仕掛けられた叙述トリックを収斂させるに至っていない、ということだ。二階堂が賛辞を送った『葉桜の季節に君を想うということ』と比較すれば、また、二階堂が選者を務める『新・本格推理』の選評を読めば、彼の論旨はおおよそ把握できる。――さて、それでは、この立場から、『X』を紛う方なき<本格>作品としてブラッシュアップするにはどうしたらよいか。真っ先に思いつくのは、富樫のものとされた指紋と、実際の富樫の指紋が全然違うと、証明される場面とそこに至る物語的伏線を張るということだろう。というか、それしかないわけで、となれば、この程度の“改良”=物語操作は、東野ほどの書き手が困難であるとは想像しにくいのである。例え初出段階でプロットが至らなかったとしても、単行本にする際には、加筆はむしろ常道だろう。すると、やはり、この“不作為”には作者の意思/意志が介在しているとしか思えない。――二階堂は、意図的に<本格>から撤退した作品と評する。作者は、これを<本格>として書いたという。私自身も、『X』は<本格>であると思う。しかし、一個の批評として各論文を眺めれば、二階堂のものが事態を正確に射抜いていると思うのだ。…………笠井は、「「作者の真意」が君臨すべき王座は、はじめから空虚なのだ」という。しかし、やはり、“不作為”の意図はあったのではないか。そして、それは――おそらく<名探偵>の不可能性、<本格>ミステリという物語空間における<名探偵>というキャラクターの限界性ではないか。巽は、“想像”もまた<名探偵>の推理のうち、というが、<名探偵>湯川の“想像”=推理が、直截的に“石神”を倒すわけではないのだ。

容疑者Xの献身

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