柳広司『トーキョー・プリズン』(角川書店)レビュー

本日のエピグラフ

 すると、本当は良心などではなく、民主主義こそがあんたたちに戦争を許し、人を殺すことを許したわけだ。(P177より) 

トーキョー・プリズン

トーキョー・プリズン



ミステリアス8 
クロバット7 
サスペンス8 
アレゴリカル9 
インプレッション9 
トータル41  


 小説の題材として<歴史>を扱うモチベーションは、それこそ“事象”に対するアレゴリカルなアプローチを可能にする期待に由来すると思うのだけれども、柳広司の場合、それが探偵小説の方法論と密接に結びついているのが、本当に素晴らしいと思う。――本作は、過去作『新世界』の姉妹作と取りあえず位置づけることができるし、一読すれば、過去の「戦争文学」を想起させるエレメントが鏤められている。“国家”間の分断ということによる<主体>の分裂という従来の問題性はもとより、大岡昇平から古処誠二にいたるカニバリズムというテーマもさることながら、戦争における<記憶>や<時間>の混乱(攪乱)ということでは、奥泉光の諸作が念頭にあるのは言うまでもないだろう。――しかし、やはり「穴」というメタファーである。これが、バルトのいう「空虚な中心」と同致することは明らかで、これに丸山眞男の問題意識が接合される。……登場人物のひとりであるアメリカ兵が「そもそも深い穴を覗き込むといった垂直な構図は、民主主義に反するものですよ」という。しかし、後半挿入される“悪夢”の中では、「穴」がまさにブラックホールのごとくあらゆるものを呑み込んでしまう。「穴」は見られる客体ではなく、見る主体というわけで、つまり我々は「穴」に睥睨されているということなのだが、この「穴」に「テンノウ」も「コウキョ」もろとも呑み込まれるのだ。ということは「穴」が、逆説的に“民主主義”のラディカルな可能性をも孕んでいる、とは否定できないのである。この“可能性”とは、“民主主義”という制度が、それ自体聖性を帯びてしまうということで、例えば、“民主主義”下の<国民>たちが、各々小さな欺瞞を抱えていても、それが滞積すれば<国民>たちを圧死させるだけの威力を持つ。しかし、“民主主義”という制度自体は、全くの無傷ではあるのだ。