柳広司『シートン(探偵)動物記』(光文社)レビュー

本日のエピグラフ

 彼はいまも、(中略)この世界をオオカミの側から眺めているに違いなかった。シートン氏の目に、いま、この世界はいったいどう映っているのだろうか?(P50より)

シートン(探偵)動物記

シートン(探偵)動物記


 
ミステリアス8 
クロバット8 
サスペンス7 
アレゴリカル10 
インプレッション10 
トータル43  


 これ、なー…………これが、講談社ミステリーランドの一冊として刊行されたのならなあ…………というか、ミステリーランド編集部は、柳広司に早急にこの続編を依頼すべきではないだろうか。ちゅうか、光文社は本書を、挿絵を入れて、活字を大きくして、児童書としても刊行するべきではないか。
 素晴らしい!  是非、子供に読ませましょう。本書からシャーロック・ホームズに入ってもいいと思う(光文社文庫鋭意刊行中)。もちろん、『シートン動物記』本編をひもといてもいいわけだし。――「探偵小説」を読み始めたころの、あのプリミティヴなワクワク感と、名探偵の“格率”にふれてモラリッシュな態度について知らずしらずのうちに学びはじめた経験――を持つ人ならば、満足するはずです。
 それにしても、作者にとって“シャーロック・ホームズ”というのは、骨がらみのテーマなのかもしれない。…………ホームズ譚に託して、19世紀における論理学的転回を平易に説いた名著『シャーロック・ホームズの推理学』の中で内井惣七は、「ホームズは十九世紀後半の論理学と科学方法論をよく知っており、立派な「論理学者」であった」と「あとがき」で述べている。「十九世紀」の前半と後半の「論理学」を分け隔てるものはなにか。ひらたく言えば、「前提」と「結論」の間に、「演繹的関係」しか認めていなかったのが前半の思想で、後半になると、そこに「確率的関係」が措定されるのだ。――内井が、「科学観の転換の最も明晰な代弁者」と紹介するジェヴォンズは、「すべての帰納的結論の論理的価値は(中略)確率の逆算法の諸原理にしたがって決定されなければならない」という。この「確率の逆算法」というのは、これもまたひどく大雑把にいえば、ある“結果”的事象について、“原因”と考えられる事柄が複数ある場合、それぞれの「“原因”‐“結果”」の因果関係が成立する確率が、「“原因”と考えられる事柄」が本当にその通りであるという確率に比例する、というもの。この「確率の逆算法」が、ホームズのいう「逆方向の推理」とほぼ一致するもの、と内井は言う。要は、ホームズは統計学的方法を深く体得していた、ということであり、この手法に必要な“原因”の仮説を複数用意する才覚、いうなれば「仮説形成力」を担保するものは、観察力、知識力、そして「想像力」なのである。こうして複数用意された仮説(当然、基本的に互いに両立しない)は、それが成立する確率を算定されるのだ。――以上が、現在に至るまでも通じる<名探偵>の“推理”のメソッドだ。そして、そうであるならば、「仮説形成力」を担保する観察力、知識力そして「想像力」、これらをさらに担保するもの、それこそ、<名探偵>のキャラクター、彼の人格的来歴にほかならないのだ。作者が、過去に歴史上の偉人を<名探偵>に据えて、あるいは<歴史>そのものを、それを背負った人間を<名探偵>に据えてきたのは、作者が「<歴史>小説」を、<神>の視点からでも、もしくは権力=体制からのでも“歴史学者”からのでも、さりとていわゆるオーラルヒストリー的なものでもなく、それらとは違った新しい視座を仮構する意識はあったはずだ。柳が「探偵小説」の素材やテーマを<歴史>から汲みだしてくるダイナミズムは、島田や柄刀が現代社会・科学・医学などから“奇想”を生み出す際のそれと、比肩する。
 …………それとは別に。最終話「熊王ジャック」で、老シートンが垣間見せる峻厳たるモラルと矜持に、私は往年の稲見一良がその諸作で、作品を通じて示す同様のそれを想起して、思わず涙ぐんでしまった。…………このような良作は、かえって年末ベストテンで排除されやすいので、絶対に見落とさないようにしましょう。