瀬名秀明『第九の日』(光文社)レビュー

本日のエピグラフ

 「しかし、ならば、個性パーソナリティ とはなんだ」/「(中略)それは神との関係なのですよ」(「第九の日」P311より)

第九の日 The Tragedy of Joy

第九の日 The Tragedy of Joy


 
ミステリアス9 
クロバット9 
サスペンス9 
アレゴリカル10 
インプレッション8 
トータル45  


 島田荘司の『21世紀本格』の問題意識を、真正面から受け止めたのが瀬名秀明だ。このマニフェストに捧げられた「メンツェルのチェスプレイヤー」は、ロボティクスにおける諸論点を探偵小説のプロットに緊密に結びつけた力作。この後の事件である『デカルトの密室』を経て、この物語の<語/騙り手>は最終的に「語りえぬもの」に対しての「沈黙」を選択する。――人間工学、遺伝子工学から心理学、社会学、哲学、宗教学の領域にまで議論は踏み込み、果ては物語論、小説論、メタミステリの方法論にいたる。これが、たんに知の大風呂敷を広げたというのでなく、各編のテーマを展開させるのに必然的であったと了解されるのだが、なんだかんだいってもナンともカンとも歯応えありすぎ。語り口は柔らかいんですけれどもね。
 永井均は『<子ども>のための哲学』で、いわゆる「独我論」の困難さについて、それが本質的に「言葉」で伝えられないこと――それを「言葉」で伝えたとき、実はそのときに、その「言葉」で伝わらなかったこと伝えられなかったことにこそ、「独我論」の内実がある、<私>であるということの「<奇跡>」の感触があると説く。永井はウィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」について、「その世界にはすべてのものがあるが、すべての物種であるただひとつの<奇跡>だけはない」という。また永井はウィトゲンシュタインの「他人は私がほんとうに言わんとすることを理解できてはならない、という点が本質的なのだ」という言葉を引いている。――となると、この物語の<語/騙り手>はこの禁を侵したことになるのだろうか。「言語ゲーム」と<小説>や<物語>は別のものではあるのだろうが、<小説>や<物語>によって、<私>の存在ということを仮構しようとするのならば、この境界線は限りなく攪乱されることになる。