鈴木邦男『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)レビュー

愛国者は信用できるか (講談社現代新書)

愛国者は信用できるか (講談社現代新書)



 本書にも引用されている、あまりにも有名なサミュエル・ジョンソンの格言、「愛国心はならず者の最後の避難場所である」に対して、これもまたあまりにも有名なアンブローズ・ビアス悪魔の辞典』では、「最後」を「最初」に訂正すべき、という。鈴木は、この“愛国問答”に対しては、ジョンソンのほうに軍配を上げる。「最後のギリギリに逃げ込むから、リアリティがあるのだ」。――三島由紀夫は「愛国心」に対して生理的嫌悪感を隠そうとしなかった。「自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向こう側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである」。要は、「愛国者」は“外部”にその身を置いているのだ。「愛国者」の胡散臭さの由来を示して余りある。言うまでもなく、三島が「日本」に対して臨んだ感情的基底は、「憂国」の情だ。そして、鈴木邦男も、以前『週刊SPA』に連載していたあまりにもスリリングな連載エッセイのタイトルは、『夕刻のコペルニクス』である。――この「憂国」の意識は、「変革」「革命」の意識に直結する。戦前の“右翼”こそ(アジアにおける)「革命」の担い手だった。それは、欧米列強に対するレジスタンスでもある。であるから、「天皇制」というテーマは、日本の近代化政策に密接に絡む問題なのだ。小室直樹はそれを「天皇教」と呼んでいる。キリスト教に擬せられた「天皇制」は、「神の前ではみな平等」ならぬ「天皇の赤子」という“国民”(=“臣民”)のポジショニングにより、近代民主主義と近代資本主義の導入に成功した、と小室は言う。ただ、本書にも言扱されているが、明治政府が全面的に「天皇」の存在を押し出したのは、西南戦争における西郷隆盛のカリスマ性に対抗するためだった、との説もある。となると、西郷の叛乱がなければ、現在にまでいたる「日本」の“かたち”はどうなっていたか、と気になるのだけれども。件の女帝論議も、もしかすると、西南戦争というトラウマ、それは西郷のカリスマ性を超えるカリスマの仮構、かつ国内のあらゆる擾乱を禁止し平定する“父”というイメージの保守というものが、紛糾の根底にあるのかもしれない。そして、三島は女帝容認派だった。なぜ三島は「男系子孫に限ることはない」と一筆残したのか。ここから著者は、三島の内心を当時の三島を取り巻く状況から鑑みて探っていくのだ。…………「愛国」にいまや成績がつけられる時代だ。この成績評価を実施することが適当かどうか、ガッコの校長センセー方が鳩首会議している状況を、まともな人間だったらただただ失笑するしかない。どうやら自分自身のココロも学習しなければわからぬお子が増えているのか。ああ、諭吉っちゃんがないている。