日本推理作家協会編『推理小説年鑑 ザ・ベストミステリーズ2006』(講談社)レビュー



 いくぜ。「独白するユニバーサル横メルカトル」“語り口”が“騙り口”に転化しなかった/「影屋の告白」異世界連作の一編だけれども、このネタだったら独立した話として創ってほしかった/「マザー、ロックンロール、ファーザー」これはミステリと呼べるのですか?/「挑発する赤」シリーズ中の異色編を採りあげたのは、“らしい”といえば“らしい”/「死神対老女」千葉氏三度目の奉仕/「鬼無里」相変わらずネタの大盤振る舞い/「流れ星のつくり方」技あり/「バスジャック」客寄せパンダ/「Rのつく月には気をつけよう」このプロットだったら登場人物が明らかに多いでしょう。ディスカッションが、小説のリリシズムを妨げた感あり/「白雨」“格”の違いを見せ付ける。……にしても、連城三紀彦の諸作を、その深層において“解読”するには、やっぱりラカンを経由しないとダメだなあ。ジジェクの『ヒッチコックによるラカン』に倣って、「連城三紀彦によるラカン」って誰か物してくれないかな/「シャルロットだけはぼくのもの」“小市民”っぷりが笑える快作。でもちとアンフェアかな/「壊れた少女を拾ったので」予定調和/「糸織草紙」『七姫幻想』にはもっと良い話があるでよ/「克美さんがいる」これは上手い。テーマをプロットによって示した好例――
 推協賞は「克美さんがいる」が相応しかったように思うが。…………いやしかし、なんやかんやで、集中の半分が既読だった。今年の年鑑は、ホラーというか寓話色の強いものが多く採られたけれども、連城三紀彦の前では単なる文章操作のなせるワザと思えてしまう。なぜミステリを読むのか、と問われれば、文章芸や小説の巧みさもさることながら、それには還元されぬ、「小説」の奥底に揺曳するなにものか――「物語」であって「物語」でないもの――を感受したいから、と。ラカンは『テレヴィジオン』で、「たとえば<男>が<女>を欲するとき、<男>は倒錯の領野に陥ることによってしか<女>に到達しない、といえるでしょうか」という。<女>は「すべてではない」。であるから、私がミステリに求めたいのは、この“倒錯”の痕跡をいかに読ませてくれるか、なのだ。