北村薫『ひとがた流し』(朝日新聞社)レビュー

本日のエピグラフ

 小さなことの積み重ねが、生きてくってことだよね。そういう記憶のかけらみたいなものを共有するのが、要するに、共に生きたってことだよね。(P203より)

ひとがた流し

ひとがた流し



 大文字の“人生”の意義よりも、日々の生活における微細な心理的穿鑿の積み重ねによって、“小説”のテーマ、というよりその方舟の舳先が示す方向、その先にある風景が徐々に浮かび上がる。「登場人物の流すものとしては《涙》という言葉も使うまいと思った」。あらゆる“感情”が労働化して、喜怒哀楽が単なるシニフィアンとして浮遊するこの時代、「泣ける」と“指示”されなければ涙を流すこともできない者たちが増えているときに、この試みは、「《祈り》」を賭金にした、“反動”的ともいうべき冒険である。――“言葉”によって癒され諭された人間が、今度は誰かを癒し諭す役割を負う。 “言葉”を介した関係性は、“役割”を反転させうることによって、日々の営みの基底をつくりあげることだろう。ほのかな情感を浮かび上がらせる仕方は、この作者独特の手付き。哀歓の演出が巧みで、読者は恋愛小説、家族小説の最良の部分を味わえ、さらに“死生”小説としても熟読したい。