“憲法”風景論

本日のエピグラフ

 シュミットは、議会制民主主義における立法過程の偽善性を攻撃する。だが、(中略)一般的公益を掲げた以上、それに即して偽善的に振舞うよう強いる点に、この政治体制の特長がある。(長谷部『憲法とは何か』P54より)
 先に紹介した鈴木邦男愛国者は信用できるか』のなかで、改憲を唱導してきた憲法学者小林節が一時的に“転向”したエピソードが盛られている。理由は、現政権与党は憲法のなかに「愛国心」の文言を盛り込もうとしているからで、憲法学者として、ごく普通の(そしてまともな)態度であるが、長谷部恭男が『憲法とは何か』のなかで述べるように、こうした改憲案は「お前たちのの心の持ちようは利己主義的でなっていない。それをただして、魂を入れ換えてやるために憲法改正案を用意してやったから承認しろ」と、政治家が国民に向かって説教を垂れているわけだ。長谷部はこれを受け入れるのは「オメデタイ人」と揶揄するが、この文言を支持するような「自分は利他的(自分以外は利己的)」と思っている自己中心的な人間は、内省がないぶん、ポピュラリティーはあるのかもしれない。
 憲法は国家の基本法である、というのを憲法は国家内で一番エライ法律だ、と思っているひとは、憲法論議が高まっているなか、各紙誌の解説記事等を読んで、少なくなりつつある……かな? まあ、社説自体頓珍漢なことを書いているのが往々にしてあるし。…………「憲法」は、国家が守るべき法律で、国家(立法府)は「憲法」に抵触する法律を制定してはいけない、でその「法律」を守らなければならないのは国民(もしくは特定の個々人)である(そして行政府は「憲法」に抵触するような行政行為をしてはならない)――と、ざっくりとした説明だけれども、「憲法」に儒教的道徳・倫理的理解のヴェールを被せてしまった原因は、どう考えてもやはり“教育”にある。――長谷部は『憲法と平和を問いなおす』で、日本国憲法第九条を、「準則」ではなく「原理」である、即ち「ある問題に対する答えを一義的に定める」“準則”ではなく、「答えをある特定の方向へと導く力として働くにとどまる」“原理”を規定したものだ、そう考える根拠をきわめて説得的に述べているが、これを「準則」として捉える不合理性、とりわけ、「絶対非武装平和主義」においては、それが「善き生」をまっとうすることを目的にしているという点で、立憲主義と相容れないとする。…………この「善き生」という「憲法意思」において、「絶対非武装平和主義」が「愛国心」と表裏一体なのは、あまりにも明白だ。まさに左から右に大きく振れる粗悪な振り子というしかない。
 さて、本当に百害あって一理もない“憲法‐教育”を解毒するには、碩学小室直樹の『日本人のための憲法原論』がじつに有用だ。ユダヤキリスト教宗教改革絶対王政を経て市民革命へ、そして近代立憲主義と近代資本主義の誕生から、「天皇教」による日本の近代化――と、小室自身によるパースペクティヴに同意できないとする向きもあろうが、“立憲政治”にいたる歴史のダイナミズムが相も変わらずの名調子で語られるのは、その“物語”の捌きっぷりとあわせて、二千年以上にもわたる“近代”への運動を、万人に鳥瞰させてくれる。蛇足だけれども、小室が丸山真男大塚久雄など、くだらぬ“立場”の違いを超えて、リスペクトを捧げる態度が大好きだ(ま、本人は“論壇”なんて気にしていないんだろうけれども)。…………にしても、憲法や議会は民主主義と何の関係もない」福田歓一が言っていたとは。あわててずいぶん前に買った岩波新書の二冊を家捜しして、まだ見つからない。とほほ。
 そのあとは、小室の弟子である宮台真司憲法学者の奥平康弘の対論『憲法対論』を。“憲法意思”がなければ、「憲法に何が書いてあろうが、憲法とは無関連に――憲法は無視されたまま――事態は進みます」と宮台はいう。小室も「たとえ憲法が廃止されなくても、憲法の精神が無視されているのであれば、その憲法は実質的な効力を失った、つまり「死んでいる」」と述べているが、要は、“憲法”は「国民」が「国家」に名宛した法律である以上、「国民」の“憲法意思”が、“憲法”の最終的な担保であるということだ。ワイマール・ドイツからナチス・ドイツが生まれたのを、“逆説”ではなく、また“必然”でもなく、“可能性”として捉えるということ。リベラリズムを“保守”するための二人の問いかけは切実に重いのだけれども、“リベラリズム”の機構や内実に無関心・無理解であれば、“憲法意思”は“リベラリズム”を毀損する方向を示してしまう。
 そこで、長谷部恭男の上に挙げた二冊が、実に参考になるわけだ。“立憲主義”とは、「人々の生活領域を私的な領域と公的な領域」に分けたうえで、「私的な領域」では各人自由な価値観にそって生活することが保障されるが、「公的な領域」では社会(に属するすべての人間)に共通する利益を実現するためのプランを討議し追求する、そのための枠組みの構築のことである。――だが、ここで齟齬が現れる。「人民が政治の主人公であり、主権者である民主主義において、なぜ憲法によって政治権力を制限する必要があるのだろうか」。ここで出てくるのが「プレコミットメント」という概念で、あらかじめ自己拘束の縛りをかけることが、将来の非理性的な(ゆえに結果的に自己に不利益を及ぼす)行動を抑止することに繋がるという筋道だが、リヴァイアサンと戦う者が、そのために自らリヴァイアサンと化してしまった因果な時代のアイロニカルな認識が介在してもいるのだろう。――長谷部の「九条改正論」についての見解はソリッドで、「従来の政府解釈で認められている自衛のための実力の保持を明記しようというだけであれば、何の意味もない「改正」である」。集団的自衛権を承認するなど、「従来の政府解釈」を更改するのであれば、「どう軍の規模や行動を制約していくつもりなのかという肝心の点を明らかにすべきである」。長谷部が例に出すのは、言うまでもなく台湾情勢である。日米vs中国の“台湾戦争”をやる気があるのかないのか。…………まあしかし、最近は米中接近してますからねえ。日本だけが道化を踊らされた、なんてことで、死人が出ちゃね。ヤスクニでオールオッケーですか。
 「九条改正論」をめぐる、専門外的な社会的批評で、見るべきものは、『9条どうでしょう』。加藤典洋敗戦後論』の肯定的論考のうち、もっとも批評的深度のあるエッセー(『ためらいの倫理学』参照)を書いた内田樹は、加藤の述べた戦後日本の「人格分裂」という問題意識について、「疾病利得」という言葉でそれを引き受けている。「敗戦日本の人々は「奴僕国家」として「正気」であることよりも、「人格分裂国家」として「狂気」を病むことを選んだ」。“憲法九条”+“自衛隊”=「アメリカの従属国」であるという事実から目を背け、“憲法九条”と“自衛隊”の両立を「矛盾している」としてこれを「解決不能の内的葛藤」状態を自己演出する。内田は「この病から癒えるためには、私たちは病み続けるより多くの物質的苦痛と心理的負荷に耐えなければならない」とするが、これは端的な戦争コストという問題には留まらないだろう。町山智浩のパートでも触れらているが、正式に国軍を備えるとするならば、徴兵制をどうするかという問題がある。リベラル派憲法学者樋口陽一は『個人と国家』で、国軍(職業的軍人組織)の組織的暴走を防ぐために、徴兵制を導入して国軍を人民によって制御するべき、と半ば改憲派のロジックの不徹底さを挑発しているのだけれども、このような市民的意識に象られた“徴兵制”を支えられるだけの「シヴィックヒューマニズム」を私たちが有しているか、というこれは問題で、宮台が「市民的次元での近代化がなされていない」この国に、有事法制は未だ危険であると指摘しているのに通底するものである。
しかし、“憲法九条”より深刻な問題がある。それは、天皇制をどうするか――というのは、上の『憲法対論』に一章分割かれているので、そちらに任せましょう。より深刻な問題というのは、“福祉国家”のことである。リベラリズム立憲主義の含意するところから、ただちに“福祉国家”の像は立ち上がらない。あのケインズ・エコノミクスの実践たるニューディール政策(を実施する法律)は、当初は連邦最高裁違憲判決が下った。時のアメリカ大統領ルーズベルトは、連邦最高裁判事の席に自分の息のかかった人間を次々に送り込み、それは過半数にも達した。それは合法的だったものの「あまりにもそれが露骨だったので後世の歴史家たちは、彼のやったことは革命やクーデターに等しいと言っているくらいです」(小室)。――そもそも“福祉国家”の体制を本格的に整えたのは鉄血宰相ビスマルク、これは“徴兵制”=国民皆兵制とワンセットであったのは、有名な話だ。そしてこの“福祉国家”の体制は、冷戦中にも維持される。冷戦とは何だったか。「異なる憲法原理、国家権力の異なる正当化根拠を掲げる二つの陣営の戦争状態であった」。マイケル・ウォルツァーのいわゆる「正戦論」における「究極の緊急事態」、戦闘員と非戦闘員の区別なしに攻撃できるのが許容される事態の概念を援用して、長谷部は冷戦(戦略)を「継続的な「究極の緊急事態」」と言い表しているが、この実質的に一般市民が戦争(核戦争=抑止)体制に総動員されている状況下では、論理的に当然というべきで、加えて「アメリカニズム」の「消費社会」的文化戦略もここにはあった。やがて“冷戦”は、(ヨーロッパの)共産主義諸国が“憲法”をリベラリズム憲法に変更することで終結するが、ここで長谷部はフィリップ・バビットの“冷戦”終結後の国家の変容についての見解を紹介している。国民総動員体制を担保する“福祉国家”は、“冷戦”が終わり「国民総動員の必要性から解放」され、「国民に可能な限り多くの機会と選択肢を保障しようとする市場国家」になる。「機会と選択肢を保障」する代償として「結果に対する責任をも個人に引き渡すことになる」。…………日本国憲法第二十五条で保障される「健康で文化的な最低限度の生活」。しかし、景気回復といっても依然デフレ圧力がかかっている日本経済において、“格差”は拡大すれども、「下流社会」層が「健康で文化的な最低限度の生活」を送れない、ということはない…………? いずれにせよ、「健康で文化的な最低限度の生活」の基準が、デフレ圧力下の経済成長(私はこれこそ「ニュー・エコノミー」と呼びたいけれども)という社会環境で、社会保障費の削減とリンクして、徐々に切り下げられるのではないか。…………“憲法九条”問題が従来の政府解釈で解決済みなのにもかかわらず、とりわけジャーナリズムで未だメインで採りあげられるのは、“憲法二十五条”問題から目をそらすためなのかと、勘ぐってしまう。

日本人のための憲法原論

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憲法対論―転換期を生きぬく力 (平凡社新書)

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憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

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憲法とは何か (岩波新書)

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9条どうでしょう

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