「予言」する探偵小説  

 大澤真幸社会学の観点から、戦後思想の構造を分析・批評した『戦後の思想空間』(ちくま新書)のなかで、「歴史」(の記述)について、言及している。「歴史を記すということは、その過去の出来事を、(中略)既に存在している、と見なすことだからです」。「事後において現れるものが、事前において既にあったかのように記すこと、これが歴史です」。そこで、具体的な説明として、以下のような例示がなされる。「たとえば、ロベスピエールフランス革命に加担した、と記述する。しかし、「フランス革命」という一連の出来事は、あとから見るからこそ、現れるのです。渦中にあった人は、本当は、フランス革命をやっている、などと思いません」。――この文の、“ロベスピエール”に、例えば<名探偵>の具体的な名前を(別に<警察>でも、あるいはレッドヘリングたちの固有名詞でもいいのだが)、“フランス革命”にそれらキャラクターの関わった<事件>の名前――即ち、作品名――を置き換えて、違和感がなければ、上記の指摘は、探偵小説批評に何かしらの示唆を与えてくれるものになるだろう。<名探偵>や<警察>の固有名を代入する場合には、“加担”というコトバを、捜査・解明するという風に読み替える必要があるが――金田一耕助は『獄門島』事件に関わった、鬼貫警部は『黒いトランク』事件に関わった、矢吹駆は『サマーアポカリプス』事件に、そして御手洗潔は『占星術殺人事件』に――このとき、渦中にあった<名探偵>たちは、そのような<事件>にコミットしているとは思わない。これら<事件>が、手記や回想のかたちでひとつのテクストとして残されるのは、<事件>というものが、「完了」という視点なしでは、形を成さないからである。当該<事件>が未解決の場合であっても、「未来完了」という視点を保持しなければ、それを<事件>として叙述できないだろう。大澤は言う。「現在の出来事が、事後の、いわば未来完了の視点との相関において、意味をもちうる、ということを前提にしておかないと、歴史は書けないのです」。
 さて、この「歴史」(の記述)は、実はある言表のスタイルと、その構造を同じくしている。それは「予言」だ。「予言するということは、現在にありながら、現在の出来事が完了してしまった後からの視点にたって、出来事を眺めるということです」。「事後の視点を事前において先取りすることです」。「歴史というのは、予言と同じスタイルを、過去のほうにスライドさせるだけだからです」――大澤は、この「予言」について、柄谷行人のエッセイを参照しながら、興味深い言及をしている。ソポクレスの『オイディプス王』で、オイディプスが結果として予言者の予言通りに振舞ってしまうように、「予言されることによって自分がそれを引き受けてしまう」。「予言が当たっているというよりも、予言のとおりに人はやってしまうんです」。しかし、自己に対する「予言」が当たること、即ち自己が「予言」を引き受けてしまうことが、年中おきているわけではない。「予言者は、人を呪縛しうるような位格にある他者でなくてはならない。要するに、それは、超越的な他者でなくてはならないんです」。このことは、一体、何を含意しているのか。「予言する超越性に対応する要素を失ったとき、歴史のような形で記憶を蓄積することができなくなるわけです」。
 「歴史」(の記述)が、探偵小説におけるナラティヴな地平において、類比的であるとするならば、それでは、探偵小説において、「予言する超越性」に対応するものは何か。それは、第一義的には<作者>ということになるだろう。そして、「予言」を引き受ける「自己」とは、この物語空間おけるすべてのキャラクターたちということになろう。――大澤は、他者の予言を引き受けてしまう自己という問題について、「自己は、ある意味で、すでに他者」だから、他者の予言を自己のものとすることができる、と言い、かつ「自己の自己たるゆえんが、まさにその他者の存在のほうにこそあるから」と指摘する。このことは、「他者‐自己」の関係性が、「<作者>‐キャラクター」のそれに、これもまた類比的であるのだ。
以上のような文脈からみれば、麻耶雄嵩神様ゲーム』における「神様」こと鈴木太郎少年は――彼の立居振舞いは、まさに「予言者」のそれというほかはない。より正確に言うなら、「神様」鈴木少年は、<作者>の断片が、この作品の物語空間内に、具現化した姿である。「神様」鈴木少年は、「ぼく」こと黒沢少年に三十六歳になったら飛行機事故で死ぬと「予言」される。黒沢少年は、当初は「嘘でもちょっと寂しくなる」という程度の感慨しか抱かない。むしろ、「どんなことが起こっても、今はまだ死ぬことはないわけだ」とさえ思うのだ。しかし、この楽天的な態度も、「神様」鈴木少年が<犯人>の名前を(既知のものとして)黒沢少年に教えた二つの事件を通過したあとで、黒沢少年悟るのだ――「決まっているのだ、もう、何もかも」。「予言」を引き受ける契機となるのは、あらかじめ<犯人>の名前が明示された<事件>を推理するという経験を経ることである。これは、数学の証明問題とは、似て非なるものだ。ここにおいては、探偵小説におけるナラティヴな地平自体が歪んでしまっている。黒沢少年は、「いっそ推理のほうがまだよかった。推理なら覆る可能性も残されている。でも真実は……揺るがしようがない」と述懐する。<名探偵>の<名探偵>たるゆえんは、「他者」たる<作者>の存在にある。<名探偵>の探偵=推理行為とは、「他者」たる<作者>が緻密に計算したプロット・レトリックの産物でもある。『神様ゲーム』における、この歪んだ探偵小説空間では、推理するという行為は、そのまま「他者」たる「神様」鈴木少年の「予言」を引き受けるに足る主体を鍛える役割を果たすだろう。
 ここで補助線を引きたい。<作者>たる麻耶雄嵩の、「銘探偵メルカトル鮎と対抗する、もうひとつの<名探偵>キャラクターである「名探偵」木更津悠也と、そのワトソン役・香月実朝。彼らの探偵譚『名探偵 木更津悠也』(光文社カッパノベルス)の、表紙カバー折り返しにある香月の前口上。これは、言うまでもなく“作者のことば”の代替である。「(前略)(名探偵の)その毅然たる姿勢が、喜んで記述者の立場に甘んじるワトソン役を産むのです。その意味では、最も彼をよく知るワトソン役が尊敬し『名探偵』だと認めていなければ、(中略)『名探偵』ではあり得ない」と、ワトソン香月は宣う。しかし、本文を実際に読めば、この香月の態度がアイロニカルであることが如実に分かる。ワトソン香月は、巧妙に「名探偵」木更津悠也を、<事件>の真相へと誘うのだが、ただ単に、香月はワトソン役にアイロニカルにコミットしているのではない。従来のワトソン役が、凡庸な「記述者」――即ち、「(過去)完了」という視点を保持しながら、<名探偵>が関与し(て、無論解決し)た<事件>を叙述するのに対して、香月は<事件>の渦中においても、喜んで「記述者の立場に甘んじるワトソン役」を意識し、その灰色の頭脳を十全に発揮させ、「名探偵」木更津(の“名推理”)に献身している。ということは、香月は、「未来完了」の視点を有していることにほかならず、つまりは、物語空間内の一キャラクターたる香月は、<作者>に呪縛されながらも、「名探偵」木更津に対して、「予言者」のごとく振舞っているのである。麻耶雄嵩という<作者>においては、<名探偵>とは、随伴する「予言者」との相関によって特徴づけられているのだ。
  翻って、「神様」鈴木少年とは、香月実朝というキャラクターを、その可能性の極限までに引き伸ばされた存在でもあるのだ。それでは、黒沢少年は『神様ゲーム』という探偵小説空間内における<名探偵>として、その存在を主張できるのか。…………この作品の結末は、掛け値なしに、ミステリ史上、屈指のカタストロフィと評価できる。ストーリーの真意、作品の内包するモラルという問題、何よりもカタルシスの在り方について――それら、一切を完膚なきまでに破砕する。残酷、という言葉すら、甘やかな思わせぶりがある、と感じ入るほどだ。
 しかし、私たちが、この歪んだ探偵小説空間で、それにもかかわらずこのカタストロフに衝撃をうけるのは、この場面があからさまなまでに示している客観的真実は、ただひとつ、黒沢少年は、「予言」を引き受け損なった、ということであるからだ。「たとえどんなに信じられなくても、そこにはただ真実のみがあるはずだ」。目前で起こった惨劇が、そうである――ということではない。それは、「予言」を引き受け損なった、という事実に対して述懐されているのだ。――「予言者」が存在する限り、それがナラティヴな地平を統べている限りにおいて、探偵小説、その物語空間は崩壊することはないだろう。だが、<名探偵>はどうか。「予言者」に見捨てられた<名探偵>は…………
 「神様」は、黒沢少年に別れの挨拶をする――「サヨナラ。いままで楽しかった。きみと出逢えてよかったよ」。
(今回の文章は、以前やっていたブログより、転載・再構成しました)

神様ゲーム (ミステリーランド)

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