“探偵”の転回について

 内田樹の近著『私家版・ユダヤ文化論』のあとがきで、内田が講義のときにツカミに以下の台詞を言ったという。「キャロル・キングとリーバー&ストーラー抜きのアメリカン・ポップスが想像できないように、マルクスフロイトフッサールレヴィナスレヴィ=ストロースデリダを抜きにした哲学史は想像することもできない」。――私たちは、これにさらに以下のフレーズを付け加えることができる。即ち、「エラリー・クイーンを抜きにした探偵小説史も、想像することができない」。
 法月綸太郎の『ふたたび赤い悪夢』は、プロローグとエピローグの部分で、クイーン『九尾の猫』の結末における、エラリーと精神科医との対話において出てきた、マルコ福音書の一節<神はひとりであって、そのほかに神はない>に込めた、クイーンの意図に思いを巡らせるのだが、この一節がユダヤ教をめぐるイエスとのやりとりのなかで、律法学者が述べたものであることに着目して、<探偵>法月は、これはクイーンが<ユダヤ教>を示唆したものである、と考えるに至る。このあと、柄谷行人のエッセーが引用され、モーゼが出エジプトにおいてユダヤの民を「約束の地」ではなく「砂漠」(=<外部>)へと導いたとされるのを、<探偵>法月は受けるのだが、そのあとにバーナード・ショーペンの作品を手に取るのを見て、<作者>法月は、<探偵>法月をPI路線にシフトさせるのかな、と勘ぐった読者も少なくないだろう。――いずれにせよ、中・後期クイーンのテクストを読み解くにおいて、<ユダヤ教>というものがかなりの比重を占めるのは間違いない。
 …………しかし。<ユダヤ教>と、そして<ユダヤ人>、この両者は実は完全に一致していない。ナチス・ドイツニュルンベルク法は、「ユダヤ教徒」のほかに、当人の信教の如何にかかわらずに祖父母の代に「ユダヤ教徒」がいたという理由で、「人種的ユダヤ人」というカテゴリーを人工的に作り出した。そもそも、近代市民革命後、<ユダヤ人>の多くはキリスト教に改宗して、キリスト教社会内でアイデンティティを獲得していたにもかかわらず、彼/女らは<ユダヤ人>としてホロコーストへ送られたのだった。だから、内田は言う。「ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない」。少なくとも、ニュルンベルク法ホロコーストがそれを不可能にした。<ユダヤ教>と<ユダヤ人>は分裂している。しかし、それでも<ユダヤ人>が<ユダヤ教>にコミットするのは、おそらく<ユダヤ>的なるものの不変性に、何かが仮託されているからではないか。
 内田は『私家版・ユダヤ文化論』のなかで、交わるところがないように思えるサルトルレヴィナスのそれぞれの<ユダヤ人>の定義について、しかし、ひとつ共通するところがあるという。「それはユダヤ人とはある種の遅れの効果だということである」。サルトルは<ユダヤ人>は反ユダヤ主義者が創りだすと言っている。レヴィナスは聖史における<ユダヤ人>が発する最初の言葉は「私はここにおります」という応答の言葉だと言う。「そのつどすでに遅れて世界に登場するもの」。内田はレヴィナスの用語を引いて、「始原の遅れ」を引きずっている、と言う。…………私たちは、ここで<探偵>というキャラクターのことを想起せずにはいられない。笠井潔は、『探偵小説論序論』所収「探偵小説の構造」のなかの「役柄論」で、「探偵小説の序幕」を、「演劇的に視覚化」すると前置きして、象徴的にその原型を描き出している。「闇のなかに悲鳴が響いた。スポットライトが倒れている屍体を照らす。舞台の左に去る犯人の足音。ライトは右に移動し、袖から探偵が登場する」。…………<探偵>と<ユダヤ人>は、「始原の遅れ」を共通の本質規定としている。ただ、両者が決定的に相違するのは、<探偵>が「謎を発見する。むしろ創造する」(笠井)ほど能動的なのに対して、<ユダヤ人>は(というより彼らから見た“人間”は)、「私は他者を知るより先に、存在しなかった過去のあるときに、他者にかかわりを持ってしまっていた」(レヴィナス)というほどに受動的な存在である、ということだ。「自分が犯したのではない罪についての有責性、他者たちのための、その身代わりとしての、有責性」を負うほどに。
 「自分が犯したのではない罪についての有責性」、それは内田によれば「有責性を基礎づけるために、「犯していない罪」について罪状を告白すること」だという。――どうしてそうなるのか。そもそも、そんなことが可能なのか。…………自分が「犯した罪」に対する「有責性」というのは、「単なる「復讐」と「損害賠償」の法的問題」にとどまり、「有責性」が“倫理”的問題にまで届いていかない。それに達するには、「罪深い行為は事実としては決して存在してはならない」。――しかし、存在してもいない「罪深い行為」の「有責性」を引き受けるということが、明らかにイノセントな主体に、果たして可能なのだろうか。これを可能にするためには、「(事実として存在しない)罪深い行為」が「まぎれもない事実として受け容れられなければならない」。内田は、これに対して「偽りの記憶」という絶妙な言葉をつかう。即ち、「私の善性を基礎づけるために、(中略)偽りの記憶を私は進んで引き受けなければならないのである」。だけれども、この「偽りの記憶」は、それを引き受ける主体が「それは“偽りの記憶”だ」と悟ったり認識してはいけないのである。<善性>の存立において、アイロニーは拒否される。とすれば、どのような機構が必要となるのか、否、必然的になるか。「人間は「一度も存在したことがない過去」を自分の現在「より前」に擬制的に措定しなければならない」。――「そのためにこそ、そのつどすでに取り返しがつかないほどに遅れて到来したものとしておのれを位置づけなければならないのである」。…………「始原の遅れ」は、こうして<善性>の存立基盤となる。レヴィナスは、「私はいわば外部から命令されている(外傷的な仕方で命令されている)のであるが、私に命令を下す権威を表象や概念によって内在化することがないのである」と言った。
 ――同じ「始原の遅れ」を本質規定とする<探偵>が、<善性>を獲得するには、「謎を発見する。むしろ創造する」、そしてそれを解決する、この主体の能動性が、受動性へと転換されなくてはならないだろう。笠井が前掲書同論文中の「物語論」で述べているように「あらかじめ客観的な構造(ストーリー)は作者=犯人に与えられている」。「読者=探偵(=プロット)」はこれを追いかける。「探偵の推理」は「最終的には犯人の告白によるストーリーの提示を無化してしまう」、この「極点にむけて、探偵小説は形式的に成熟してきた」。――これを換言すれば、<探偵小説>は、「始原の遅れ」を解消する方向性で、それを形式の洗練と成熟のモチベーションとして、発展してきた、と言えるだろう。<探偵小説>は<善性>を、その形式性ゆえに拒絶するのだ。…………ということは、この<探偵小説>における“形式”の危機は、必然として、<探偵>を<善性>へと対面させる契機となるだろう。――ここで採りあげるテクストは、当然『十日間の不思議』である。このテクストについては『探偵小説論 Ⅱ』における笠井の言及より的確に剔抉した文章はない。「ようするに『十日間の不思議』の犯人は、作品空間の外部に超出している。(中略)これでは「作者=犯人=ストーリー」に、「読者=探偵=プロット」は永遠に追いつくことができない。探偵小説という形式体系の無根拠性に直面したクイーンは、探偵が犯人に追いつくこと自体を禁じたともいえる」。「始原の遅れ」を克服できなかった――禁じられた<探偵>。それでは、<探偵>エラリーにとって、「偽りの記憶」=「(事実として存在しない)罪深い行為」=「自分の現在「より前」に擬制的に措定」された「一度も存在したことがない過去」とは、一体どのような“記憶”なのか? …………それは、法月の言う、「閉じた形式体系=自己完結的な謎解きゲーム空間」を保証する「作者=探偵」による「共同宣言」、それが破棄されたということだろう。これを、<探偵>の主体性にかかわるかたちで跡付けるのならば、<探偵>は<犯人>を最終的に取り逃がす密約を交わしていた、ということになる。「一度も存在したことがない過去」において。
 『九尾の猫』の巻末には、「名前に関するノート」がある。これが、<他者>に対する「有責性」の表明であることは、間違いないように思われる。これに<探偵>エラリーと<作者>クイーンは、共同署名したはずだ。「私はいわば外部から命令されている――」というレヴィナスの発言の前段にはこうある。「私が隣人を名指すに先んじて、隣人は私を召喚している。それは認識のではなく、切迫(obsession)の形態である。(……)隣人に近づきつつあるとき、私はすでにして隣人に遅れており、その遅れの咎によって、隣人に従属しているのである」。…………「名前に関するノート」のイントロダクションは、次の文章で結ばれている。「もしリストにない名前が本文の方にあったら、それは疲労した校正者の目が見落としたのであるから、読者はその名前をリストに加えていただきたい」。
 …………内田の『私家版・ユダヤ文化論』は、そもそも「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」を論じた著書だ。これは、「反ユダヤ主義とは一体なにか」という問いでもある。「反ユダヤ主義とは一体なにか」? …………これに関しての内田の回答は、本書を実際に読まれたい。――そして、この内田の見解を目にして、私が思ったのは…………EQの諸作のなかでも、その解釈において様々の説のある問題作、『第八の日』。これは、まぎれもなく、「反ユダヤ主義」がテーマ(のひとつ)になっている作品ではないか、ということだった。
(内田前掲書より引用した部分は、すべて傍点強調は省略しています)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

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