柳広司『我輩はシャーロック・ホームズである』(小学館)レビュー

本日のエピグラフ

 きみたちの二つの夢。基督教と社会主義。あの世と未来。日本はそのいずれも、これまで信じてこなかったし、これからも決して信じることがないだろう。それらは、ぼくたちが見る夢ではないのだ……。(P204より)


 
ミステリアス8 
クロバット9 
サスペンス8 
アレゴリカル9 
インプレッション9 
トータル43  


 島田荘司漱石と倫敦ミイラ殺人事件』の“文脈”を引き継いだ作品として、柄刀一御手洗潔シャーロック・ホームズ』が挙げられるが、本作品は、それと山田風太郎「黄色い下宿人」を射程に収めた意欲作だが、重厚な歴史ミステリの書き手として知られる作者が、スラップスティックな筆致と展開を目論んだという意味では会心作といえるだろう。ナツメ=ホームズの引き起こす珍騒動は、<近代>における異文化接触の滑稽さと言うことを認識していても、思わず吹き出してしまう。句会にくだりはシュールだなあ。山口雅也あたりが喜びそう。――狂セリ夏目の、その分裂=統合失調の様態は、いうまでもなく<近代=日本>の隠喩に他ならない。「ナツメは、これこそが実践すべき文学だと思い込んでしまった」シャーロック・ホームズは、島田がバクロしたように正真正銘の奇人ではあったが、また同時に国家を股に掛けて活躍する存在でもあった。ある意味で(帝国の)普遍的意思を体現あるいは仮託されている存在である。この<意思>は普遍的=抽象的であることにおいて、それに耐えうるだけの<主体>に投影されることもあるだろうし、<主体>から遊離することもあるだろう。ナツメのP222の“告発”は、探偵小説のシュールな可能性をも示唆しているのだが、ここに示されていることは、ロゴスに託することで、この抽象的な<意思>を実現させようとする<主体>の宙吊りになった姿である。ナツメの上に現前する分裂、若しくはある二重性。しかし、それは、イカれた東洋人の小男のみに降りかかるわけではなく、より劇的なかたちで、読者の前に“現前”する。――さて、我らがナツメ君は自転車を征服しても、その情熱はこれまた滑稽なかたちで阻まれる。<帝国>の黄色い下宿人は、いかように“分裂”から回復するか。