もーいくつ寝なくてもーお正月ぅー…………

 2006年も時の虚しく過ぎゆくままに、コイズミのケツを拭って我らがアベ王子(と目付ナカガワ)は土下座外交を徹底させたみたいで、海峡の向こうの大統領も死に体、保守派も力を取り戻しつつあるようで、アジア情勢はひとまず小康、国内的にはなんといっても三角合併が台風の目だけれども、国粋官僚たちが法律の条文にギリギリの防衛線をめぐらせているみたいだけれども、「政官財学報」(©田中康夫)プラス物書きなどにいる一部の売国屋たちの煽動戦略の如何によっては予断を許しませぬ。とりあえず、来年はカー没後30周年ということで。このギャグもう聞き飽きましたか。
 …………さて、今年のミステリ界は何ていったってアレに尽きるわけでございますですよ。基本的にある論争を最終的に裁定するのは、“時”の神様のみであるわけです、少なくともヒューマニティーズの領域に関する限りは。レヴィ=ストロースサルトルの哲学を「第一級の民族誌的資料」であると難じた現代思想上のエピソードは、今もなお「実存主義」が延命しているのならば、それは「構造主義」による「実存主義」への死亡宣告というものでなく、単なる“当てこすり”としてのみ捉えられたはず。例えば、「構造主義」が「実存主義」のメタレベルに位置することができたからヘゲモニーを握った、というのは精確なところではないだろう。かと言って、下等民主主義的にその言説への支持が過半数を獲得したからというのでもない。逆に官僚主義的というのもまた然り。「“時”の裁定」なるものに、唯一近似するものとすれば、それは<資本>のリアリティ、ということになるんだけれども、それじゃミもフタもないよなあ。とにかく、「論争」において大切なのは、各論文をそのまま“時”にさらすということ。個々の論文に支持を表明する場合、この“時”のフィルターを介して言及しないのは、単なる「美人投票」であって、当該論文の時価評価を上げようが、到底“一票”にはなりません。だから、「論争」に裁定が下されるのは少なく見積もっても五年から十年くらいはかかる。それじゃ「論争」の内容なんて忘れちまうのは当然なんですが、それが肝要で、その「忘れた」あとで、私たちが一体どういうパースペクティヴを自明のものとしているか、そこが本質なのです。――なあんて、あまりにも「構造主義」的な。
 …………というわけなんで、とりあえず“今”の段階で、どうにも引っかかるのが、個々の論文の内容よりも、それに付随する挙措ですな。顕名匿名問わず、また肯定否定にかかわらず、ある種の当てこすりやら皮肉やら悪口中傷罵詈雑言、まあそういったものは、「論争」の本質とは一切関係ない。これらは、純粋にエンターテインメントの評価に属することで、それ以上でもそれ以下でもない。そんなものにほんのちょっとでもイノチをかける余裕があるのなら、対象を愚直に論じ続けてください。レトリシズムの要請があるのかもしれないが、それを矯める“勇気”(“品格”とはいわないよ)も必要。ましてや、相手がそうきたから、こっちもこれぐらいはやる、「目には目を」というか「目には目潰しを」の論理は、見苦しいどころか名誉毀損の領域にまで話は及んでしまいますよ。民事だったら「損害賠償」の相殺があるかもしらんが、“罪”の領域に相殺はありません。そんなものが「正義」であるものか。…………「論争」の“政治学”、とサブタイトルをつけたくなる仲正昌樹のこの本を読んで、そうか、「論争」でなくて“闘争”をやっているのかも、と合点したけれども、でももしかしたら端的に不真面目不誠実であるということかもしれず。“闘争”に勝つんであれば、そりゃ「力」こそが「正義」ではあるわなあ。

ネット時代の反論術 (文春新書)

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