内藤朝雄『いじめと現代社会』(双風舎)レビュー

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――



 
名著『いじめの社会理論』で、「中間集団全体主義」というパースペクティヴを編み出して、われわれの住むこの社会の病巣を析出した著者の、最新論集。「中間集団全体主義」とは、「各人の人間存在が共同体を強いる集団や組織に全的に埋め込まれざるをえない強制傾向が、ある制度的・政策的環境条件のもとで構造的に社会に繁茂している」社会のことをいう。著者の一連のいじめ論の核心は、義務教育下の学校が、「中間集団全体主義」を強いることによって、そのメンバーが、仲間内の“空気”に支配される(著者は「瀰漫浸潤型超越性」と呼んでいる)環境がベースにあるというもの。学校を“聖域”とせずに、ごく普通の「市民社会」が採用している社会的準拠枠を導入するということが、喫緊の課題である。著者の現在の関心は、この命題を大人の社会、具体的には「職場」の人間関係に応用・援用したいということだが、マクロな労働環境自体の悪化による「日本的経営」アゲインの声が強まるなか、日本的「職場」批判は、むしろ一部の左派=労組からカウンターをくらうかもしれない。それ自体「中間集団全体主義」的圧力にさらされている左派、そして右派の「論壇」の欺瞞性は、「公論の場を、「われわれとやつら」の論点抱き合わせセットで独占してきた」と批判される。無論、経済政策とアメリカ戦争政策、皇室継承問題については、右派「論壇」は割れているものの、日本社会のアーキテクチャをめぐっては、右派が「大日本民族国家=超生命体の社会」を理想とし、左派が「各人は万人のため、万人は各人のため」というプリミティヴな社会を理想としている限りにおいて、「やつら」に対抗するために立ち上げられる「われわれ」という集団主義性と、未だに「論壇」は軌を一にしている。どちらの主義・理想も「教えて治に至る」型の社会に帰結して、個々人のQOLは圧殺される。左右に対抗する「リベラリスト」の第三の独立勢力は果たして形勢されうるのか。現実の統計データで少年による凶悪事件は50〜60年代のピーク時の20〜30%に激減し、また大半の人間が少年による凶悪事件に遭遇したこともないと内閣府のアンケートに答えているにもかかわらず、「青少年による重大な事件などが増えていると思うか」という質問に、九割以上がイエスと答えてしまう。喫煙、飲酒、深夜徘徊、万引きやチャリ盗などを「重大」と捉えているのかもしれないが、それよりも最大の要因はメディアの「祭り」なのは言うまでもない。そして、「論壇」も、まがりなりにもメディアの端くれである以上、「公論」の名を借りた「祭り」は、この国の知的情況を分裂させながらも「われわれとやつら」という意識のもと、凭れあわせるのだろう。剋目すべき著者の「天皇の象徴責任論」は、左右の言論共同体に対する強烈な皮肉にもなり得ている。巻頭と巻末に収録されている対談は、対本田由紀のは「教育」に関する権力性の位相に、対宮台真司のは「社会」の位相変容とその施策的リアクションについて差異が認められるのが興味深かった。