宮台真司・鈴木弘輝・堀内進之介『幸福論』(NHKブックス)レビュー

幸福論―“共生”の不可能と不可避について (NHKブックス)

幸福論―“共生”の不可能と不可避について (NHKブックス)



 
「幸福論」が「いかにして“幸福”は可能か」という問いならば、これは、ロールズの「善の希薄理論」即ち、個々人がそれぞれ自分なりの“善い”人生を送るのに必要な社会の倫理的構想と相同の関係にあると、とりあえず言えるかもしれない。しかし、「“幸福”だといかにして思わせるか」という問題であるのならば、言ってみれば、“幸福”をめぐる万民のゲームを、その「全体性」を見通せる者たちのゲーム、“幸福”をめぐるメタ・ゲームということになる。このメタ・ゲームのプレイヤーは、言うまでもなく「エリート」である。――それでは、この「エリート」なるもの、果たして真に存在するや否や? オレ/アタシ的「全体性」を以て「“全体性”を見通せる者」を僭称するエセ「エリート」と、ほんまもんの「エリート」を、区別/選別できるのか。いづれにせよ、「エリート」(のポジション)は存在すると端的な「真理」を語る宮台と、オマエはほんとに「エリート」かとカウンターを喰らわそうとする堀内(両者「視座」の輻輳を意図しても、宮台の場合は社会教育的分業体制に、堀内の場合は「エリート/民衆」の二分法の脱構築戦略の意味合いを帯びる)のバトルが前半。後半は、「教育」の戦略性について、「田吾作平等主義」から「擬似階級社会化」(=「ハビトゥスを獲得する機会の格差」を「教育」で中和したうえで、社会的上昇の通路をつくる)による「エリート」の創出を目論む宮台に対して、鈴木は感情的コミュニケーションと理性の統御の往復のなかで「適応力」(=自明のものを相対化、自省する能力)を涵養することを目指す。かくして、ソーシャル・デザインは可能か不可能かについて、討議はなだれ込むが…………という論点の推移を抜書きしてみても、まぁるで意味はないのです。冒頭で宮台が、「ハーバーマスルーマン論争」における「ウロボロスの蛇」的構造に注意を喚起して、本討議を「一部ロールプレイ」であると断っているように、ロジックのメタレベル的先取やオルタナティヴの提示が、議論を決裁するのにいささかも寄与させない。にもかかわらず、論議を徒に遅延させている印象は皆無で、むしろある種の切迫性が感じられるのは、<社会>の「フィールグッド」化の大波に、抗おうとせんとする意志ゆえで、「フィールグッド」が“消費者”の欲望とラディカルに結託した政策であるがゆえに、これを廃棄すれば無用な<社会>的コストが増大するかもしれず、さりとて無自覚に肯定すれば、統治権力の恣意性に対抗できなくなる、「政治的関心を殺ぐ」ことは巻末で堀内が指摘するとおりだ。――だから、私たちは、この鼎談を読んで、議論の果てない重畳化に眩暈を覚えることを以て、現在の再帰性の深度の大きさを思い知るしかない。…………一点だけ。精確な観察であれ、恣意的な囲繞であれ、「全体性」を見渡して「社会設計」するのが「エリート」のそれたる所以だけれども、しかし、「エリート」が一個の(=個別的な)パーソナリティに還元される必然性は果たしてあるのか、というのが議論を通しても拭えなかった疑念である。ソーシャル・デザインとソーシャル・デザイナーが、<作品‐作者>に対比しうるものなのか、ということで、少なくとも、この発想が根底にない限り、宮台的「擬似階級社会化」のプランは出てこない。ソーシャル・デザインなるものが、実定法で描かれるのか、“行政指導”で実践されるのか、羈束行為なのか裁量行為なのか。ソーシャル・デザインが法律の条文によって充分に担保されるならば、「エリート」を持ち出さずとも、ある程度の“教養”さえあれば、パンピーによるベタな討議倫理で充分にフォローできるのではないか。「社会設計」の部面が、経済や社会政策にかかわるものである場合、やはり巧妙な利権誘導は、もはや宿命というべきだろう。ハーバーマスの一連の議論もこのことは織り込みずみで、ソーシャル・デザイナーの責任倫理ということが問題となるのならば、デザイナー自身を無くす方向性でいくしかないのではないだろうか(という観点からすると、「エリート」は治安・外交・軍事の部面に限定されることになるけれども)。