篠田真由美『風信子(ヒアシンス)の家 神代教授の日常と(、)謎』(東京創元社)レビュー

本日のエピグラフ

 消えていく、なにもかもが、溶けない雪の下に埋め尽くされるように……(「思いは雪のように降りつもる」P307より)


 
ミステリアス8 
クロバット8 
サスペンス8 
アレゴリカル9 
インプレッション8 
トータル41  


 セルフ・ライナーノートともいうべき「あとがき」の中で、「推理小説」のことを「神秘を世俗の論理で解体するジャンルの小説」としたうえで、「ただそれが世俗の論理から一歩も出ずに終わるなら、人間という「パンのみでは生きられぬ」ものを十全にすくい取ることは出来ないだろう」と作者は言っている。だけれども、私が篠田の一連の作品に感じるのは、決してゴシック小説の要素のみに還元できぬ小説世界の確かさである。「世俗」性と「神秘」性は常に拮抗関係にある。「神秘」的要素に拘泥しすぎた“物語”が、“小説”というパフォーマティヴのレベルで<作者>のモチベーションを露顕させてしまうことにより、“物語”をチープなものに感じさせてしまうことはよくあることで、早い話、<作者>がただ単に現実逃避をしている“小説”は評価に堪えないということである。「神秘」的な諸々の道具立ては、人間が制作した以上、エコノミーの論理に原初から汚染されていないと、が言えるのか。それに無自覚であれば、<作者>の“欲望”は、無惨なコトバの瓦礫として提示されるだろう。無論、この瓦礫に小宇宙を見出すアレゴリカーもいるだろうが、この者の賞揚は、この<作者>の功績に数え上げられるものではない。――この点、篠田の上記の言及は、この作者が、「パン」で生きる「人間」という「世俗」的存在に、“小説”の測鉛を下ろしているのを鑑みれば、「世俗の論理」すら焙りだせぬ者が、「パンのみでは生きられぬ」存在を描破できるわけがない、とのニュアンスを聞き取るのは、自然なことと思われる。スリーピング・マーダーテーマを扱った「思いは雪のように降りつもる」は、石持浅海の某作品を想起させるものの、時間軸を設定したことが、レッドヘリング達の観念的齟齬に字面にのみ還元されぬリアリティを与え、石持作品より物語的な深度を獲得することが叶った。「夢魔の目覚める夜」の奇妙な詭計においても、「世俗」性と「神秘」性の拮抗そのものが、ミステリーを醸成させているのだ。「干からびた血、凍った涙」も、巡礼の果てに立ち現れる“神”の領域は、しかし歪な生の欲望にささえられているのだ。本書は作者の小説世界を十二分に堪能できる、充実した作品集である。