原田武夫『国家の読み解き方 憲法学という教養』(勁草書房)レビュー

国家の読み解き方

国家の読み解き方



  
 近代立憲主義に拘泥しすぎた「戦後日本憲法学」に対する、旧ドイツ「国法学」を援用した「民主主義の原則」を貫徹する立場からのアンチテーゼである。著者は周知のように、外務官僚出身の保守系反グローバリズム(反アメリカニズム)論者として、各紙誌で論陣を張っているが、本書は、著者の過去の著作よりも増して論争的書物であると思われる。「近代立憲主義」とは、経済的勢力を増大させた“市民”層が、「法治国家論」と「三権分立論」で以て、王権にくびきをかけた政治体制だけれども、シュミットが指摘するように、とりわけ「三権分立論」と「議会主義」に代表される民主主義的概念は、当然に両立しえない。なんとなれば、「議会主義」が「議会」の権限を優先させる政治制度と定義されるのであれば、以て「三権分立」の拮抗は崩れてしまうからだ。「近代立憲主義」の現代的変遷は、たとえば個々人の「幸福追求権」というかたちで結実するが、元を糺せば、“市民”の経済的自由、即ち富の蓄積を充分に担保するものとして、それはあったのである。「戦後日本憲法学」は、無論、軍国主義ファシズムの徹底批判としての精神を内包していたのだけれども、この上で展開される「立憲主義」的思索は、単純素朴な個々人の「国家からの自由」という思考に帰結してしまう。個々人の精神活動にかかわる「国家からの自由」は当然だとしても、これが殊に「経済的自由=富の蓄積」にかかわるものである場合、どうなるか。これをスローガン化したのが、ほかならぬ「官から民へ」の合言葉ではなかったか。「「立憲主義」は「官から民へ」というスローガンに賛成こそせよ、これに対して原理的に疑問を呈することはできない考え方だからです。(中略)これでは、「戦後日本憲法学」が構造改革の是非を巡る論争の中で沈黙を保っているのも当然のことだといえるでしょう」。――要するに、「戦後日本憲法学」つまるところ「戦後民主主義」が、「構造改革」を招来した(ムカシは「構造改革」というコトバは平和的社会主義移行論のことだったのですが)、あの郵政選挙の結果も「戦後民主主義」の最終(?)段階だった、とあるイミ身もフタもないことを言っているわけです。…………さて、それではどうするか。著者が主張するのは、過度の「立憲主義」的隘路から抜け出すために、「民主主義の原則」に還れ、ということなのだけれども、「民主主義の原則」とは「統治者と被統治者の同一性の担保の原則」のこと。ここから著者は、「統合論」としての憲法学に注意を喚起させるが、早い話、ネーションの再構築を目論んでいるわけです――きわめてアイロニーに満ちた。この後、議論は「民主主義」を象徴する「議会主義」を成立させる選挙制度のこれまた隘路についてのことになり、そこで報道メディアについての「財産権の保障、さらにはそれに対する公共の福祉による制限といった文脈でとらえ」る問題提起をしている。…………“左”を“右”と言い、“右”が“左”と言い、おまけにメディアに関しても「公共の福祉による制限」についての議論がなされるべき、と言及があったせいかどうか分からないけれども、本書の書評を一般紙や有名誌でほとんど見かけない。だけれども、いわゆる脱(反)国民国家論やポストコロニアリズムなどの論及が一段落して、ネグリ=ハートの<帝国>論、ローティ、ウォルツァーらのリベラリズム論、さらにはリベラル・ナショナリズム論議も沸き起こっているなか、グローバリゼーション下のリベラリズムをめぐる言説として本書を見た場合、単なる“反動”として切り捨てるのは、これに関する知見を(批判的視座を介して)洗練させる契機を失うことになるだろう。おおよそ“品格”を欠く保守アジテーターらとは一線を画す「教養」書として、是非熟読をお薦めしたい。