赤染晶子『うつつ・うつら』(文藝春秋)レビュー

うつつ・うつら

うつつ・うつら



 
ふたりの逃げる女がいる。「初子さん」における美根子と表題作における鶴子。「初子さん」の時代設定は「昭和五十年代」。大澤真幸パースペクティブを借りれば、「虚構の時代」=「欠如」のない時代の初頭の話だけれども、一読、初子も美根子も、とても「欠如のない」存在とはいえない。美根子が逃げた理由を「この町では足りなかった。寸法があまりに小さすぎた」と初子は思うが、自分自身は「この町」に身の丈を合わすことで、「欠如」を殺したようだ。――では表題作の鶴子は、なぜ逃げるか。鶴子が「劇場」で飼う九官鳥のパリ千代は、自分が再現した「音」や「言葉」の「意味」を剥落させてしまう力を持つ。要するに、純粋なシニフィアンに還元させてしまう。それでは、人の「名前」をパリ千代が再現したのならば。「人から名前がはがれるとどうなる。」「名前を失った人は死ぬしかない」。パリ千代は、<主体>の空虚をあからさまにしてしまう。鶴子は、自分の名を呼んだ赤ん坊の金太郎を抱えて走る。赤ん坊のほしいものを与えるために。「金太郎」を消さないために。