小林敏明『廣松渉――近代の超克』(講談社)レビュー

廣松渉-近代の超克 (再発見 日本の哲学)

廣松渉-近代の超克 (再発見 日本の哲学)



 
これはもう、タイトルがすべてを物語っています。廣松思想そのものを語っているのは第二章で、その前後では、「近代の超克」における「近代」とその「超克」(もちろん日本における)の意味性について論じているのだけれども、その「超克」の位相を問うた第三章が刮目必須。「近代の超克」の意思を同じくするものとして、京都学派との「近代」観の同一性を著者は指摘するが、廣松や京都学派を「超克派」とあえて括り、それに相対するものとしての「近代主義派」の代表的論客として、丸山真男の「近代」観を概括するのだが、実は両者に、そこにおいては相違はさほど見られない*1。決定的に両者が分かたれるのは、丸山にとって「近代」とは、「あくまでイデオロギーからは自由な「開かれたシステム」ないし「未完のプロジェクト」」であり*2、「超克派」にとっては「閉じたパラダイム」であるということにある。なぜ、「近代」が「閉じた」ものとして感知されるのか。それは、あくまで「対象」として捉えられたからであり、「すでに近代を体現した先行する国や地域を「外部」にモデルとしてもっているということである」。…………さて、ここから、「近代の超克」に対する著者独自の見解が開陳されるのだが、そのアクロバシーは実際に本書で確かめられたい。廣松最晩年の「遺言」はあまりにも有名だけれども、著者が指摘するように、廣松や京都学派に共通する「原点遠心的発想」もさることながら、しかしこれは、文明の中心は西へ移動する、という直観も働いているのではないか、と思ってしまう。

*1:著者はそこに、日本思想におけるヘーゲル主義の影を見るのだが。

*2:つまり、「近代主義派」は漸次的な社会改良主義であるということで、「たとえば、戦後の日本政治において、かつて「構造改革」を訴えていた人々が社会民主党路線を経由して、ほぼ跡形もなくネオ・リベラリズムへと解消されていったという事実」を著者は挙げて、この流れの弱点としているが、それを体現しているのが、たとえば田原総一朗だろう。