島田荘司『リベルタスの寓話』(講談社)レビュー

本日のエピグラフ

 中立者の行動は、厳密に物的な証拠と、論の冷静な合理性に裏打ちされていなくてはならない。どの国へのひいきでもなく。それこそが、自由へのメッセージだ(「リベルタスの寓話」P158より)

リベルタスの寓話

リベルタスの寓話


 
ミステリアス10 
クロバット10 
サスペンス9 
アレゴリカル10 
インプレッション9 
トータル48  


 島田の紡ぐテクストに、切断された屍体、損壊された身体の表象が、とても似つかわしく思えるのは、それらの表象が、作者がひとつの“物語”について、そのテクストを“切断”されたパーツの集合として差し出しているのに対応しているのではないか、と思う。ナラティブのレベルにおける“暗転”というよりかは、“切断”されたテクストの断片の陳列。それらは内的な連関はあるのだけれども、因果の系列で把握されるのを拒絶する、というか。要するに、「無意味」ということなのだが、島田が紡いでしまう「無意味」が、<記憶>の不可能性を招来させてしまう「民族浄化」というテーマに接近したのが、本作品集である。――「だが君は、私に語らせた。語るのは、見ているのと同じくらいにつらいことだ」。<記憶>は抑圧される。が、その一方で、「民族浄化」という殲滅戦のゲームを駆動させるのが、「怨念」だ。この「怨念」が、21世紀というフレームのなかで、グロテスクでシュールなパフォーマンスを演じさせることになる。無論、「怨念」はこのようなパフォーマンスを強いてはいないが、「怨念」はあらゆる無様さを正当化するのだ。それは、「怨念」が民族主義に占める崇高な地位から、個人的な欲望の欺瞞・隠蔽の“道具”に堕落するのを必然とするだろう。この位相において、私たちの凡庸な欲望の“物語”に合流することとなる。“民族主義”という物語に孕む分裂が、過去の<記憶>と、現在の欲望をひとつの“物語”の内部に混在させる。