本日のエピグラフ
中立者の行動は、厳密に物的な証拠と、論の冷静な合理性に裏打ちされていなくてはならない。どの国へのひいきでもなく。それこそが、自由へのメッセージだ(「リベルタスの寓話」P158より)
- 作者: 島田荘司
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/10/06
- メディア: 単行本
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ミステリアス | 10 |
アクロバット | 10 |
サスペンス | 9 |
アレゴリカル | 10 |
インプレッション | 9 |
トータル | 48 |
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島田の紡ぐテクストに、切断された屍体、損壊された身体の表象が、とても似つかわしく思えるのは、それらの表象が、作者がひとつの“物語”について、そのテクストを“切断”されたパーツの集合として差し出しているのに対応しているのではないか、と思う。ナラティブのレベルにおける“暗転”というよりかは、“切断”されたテクストの断片の陳列。それらは内的な連関はあるのだけれども、因果の系列で把握されるのを拒絶する、というか。要するに、「無意味」ということなのだが、島田が紡いでしまう「無意味」が、<記憶>の不可能性を招来させてしまう「民族浄化」というテーマに接近したのが、本作品集である。――「だが君は、私に語らせた。語るのは、見ているのと同じくらいにつらいことだ」。<記憶>は抑圧される。が、その一方で、「民族浄化」という殲滅戦のゲームを駆動させるのが、「怨念」だ。この「怨念」が、21世紀というフレームのなかで、グロテスクでシュールなパフォーマンスを演じさせることになる。無論、「怨念」はこのようなパフォーマンスを強いてはいないが、「怨念」はあらゆる無様さを正当化するのだ。それは、「怨念」が民族主義に占める崇高な地位から、個人的な欲望の欺瞞・隠蔽の“道具”に堕落するのを必然とするだろう。この位相において、私たちの凡庸な欲望の“物語”に合流することとなる。“民族主義”という物語に孕む分裂が、過去の<記憶>と、現在の欲望をひとつの“物語”の内部に混在させる。