酒井信『平成人(フラット・アダルト)』(文春新書)レビュー

平成人(フラット・アダルト) (文春新書 (611))

平成人(フラット・アダルト) (文春新書 (611))


 
 タイトルは、まさに言いえて妙、という趣がある。「フラット・アダルト」とは「ヒラの成人」ということでもあり、彼らは社会的な下層に押し込められながら、自分以外とは上下のない「ともだち」の関係を取り結ぶ。グローバリズムとテクノロジーの発展が、この状況を下支えした。「平成人」に可能性はあるか。本書の問いは切実だけれども、著者の語り口は、淡々としている。「平成人」即ち「デフレな青春を謳歌してきた私たち」は、「純然たる被害者ではあり得ない」と著者はいう。要するに、グローバリズムと共犯関係を取り結べた分、私たちは幸福だった、ということで、これからはそうは問屋が卸さない、というわけだが、円高がデフレな消費を可能にさせたのであれば、円安に振れればインフレ懸念は重大だが、社会下層の所得水準は上がるかもしれない。世界システム論の射程はまだ有効かもしれず、「平成人」の真の危機は、自らの老後が、大量に流入した外国人労働者の収める税金によって賄われることが決定的になったとき、つまりは、自らの労働が、国家から生産手段にカウントされなくなったとき、であるように思われる。彼らに寄生せざるをえなくなったのが、否応なく可視化されたとき、果たして、著者が九鬼周造の「いき」という概念で、「平成人」は困難を克服できるのか、率直に思う。――いずれにせよ、この時代に必要な覚悟を迫るという意味で、出るべくして出た感のある一冊。