木村純二『折口信夫――いきどほる心 』(講談社)レビュー

折口信夫――いきどほる心 (再発見 日本の哲学)

折口信夫――いきどほる心 (再発見 日本の哲学)



 近代日本における国家神道神道の「道徳」化(=「憲法に拠る自由信教を超越する為に、倫理内容を故意に増して来た」)に対して、折口信夫は、神道の「宗教」化の流れと、柳田國男の「民間信仰」を重視するスタンスとの間に立って、「国家神道とは異なる「宗教」を己れの心のよさ(倫理)として実現」するものとして、「まさに己れの内面の問題として神道を捉えようとする」。折口にとって「国学」とは、「固定しないで、非常に自由に、日本の国文学及び国文学的な伝承の中から出て来る道念」を引き出して、「我々の清純なる民族生活を築き上げて行く」ものだった。それでは、そのような折口にとって「神」とはいかなる存在であったのか。『古代研究』における折口の達成を概観して、論述はスサノヲによる「天つ罪」の問題性へと移る。戦後、GHQの「神道指令」を追い風に、「神道にとつて只今非常に幸福な時代」と語った折口の、神道の真の「宗教」化の目論見は、神道における「罪」と「罰」の問題、「罪障観念」の非在という限界に突き当たるが、折口の思索の内実から「罪」という概念がこぼれてしまう。この淵源を、著者は折口の人生と、釈迦空名義の歌を精査して論じていく。著者が巻末に記した「神や仏をめぐる教説が、罪や死の問題を包括した一つの体系としてひとびとの生を支えるのでなく、個々に断片化された習俗としてひとびとのうちに流れ込み、そのときどきの価値判断や行動を拘束している」という指摘は、折口の「宗教」と、その土台になる「倫理」の探究の歴程を辿った後であるがゆえに、なおさら近代の延長線上にある現在の切実な課題を示唆して余りある。