“尊厳”社会の行方



 大澤真幸プロデュース『アキハバラ発』は、なんというか、多面的なアプローチというよりかは、個々人言いっぱなし状態という感が無きにしもあらず、なんですが、まあ、秋葉原事件という枠組みをとっぱらって、別々のエッセーとして読めば、充実したものであります、さすがに、この執筆陣だもの。個人的には、佐藤俊樹永井均のがとってもよかった。本質論ですね、まさに。*1――で、『ロスジェネ』の秋葉原事件の特集号も読んだけれども、どうにもこうにも、引っかかる問題がある。事件の焦点を、「尊厳」と「承認」の問題に集約させる方向で、大勢は進んでいるみたいだけれども、どうもこの「尊厳」ってやつが、何かマテリアルなものとして扱われているみたい、なんですよね。「尊厳」の「再分配」とか、「調達」とか、って。どうなんでしょうか、「尊厳」って、与えられるものなのか。いや、他の人からではなくて、自律/自立して得られるものだ、ということを、言いたいわけではないんです…………例えば、自分が他人と摩擦や相克が全く生じていない状態で、その人が自身の「尊厳」を感得する、ということが、日常的な問題としてあるのかどうか。むしろ、他人に自身が何らかの加害、侵害を受けた、そう思ったときに、自身の「尊厳」が犯されたと感じ、そのときに「尊厳」なるものが、生活上の問題として、意識の俎上にのぼってくるのではないか。――無論、他人から間違いなく重んじられている、必要とされているという状況が、自尊心を生じさせるのは当然としても、「尊厳」が“問題”として論じられるシチュエーションは、そういうケースを暗黙に措定しているからだろう。となれば、「尊厳」について論ずべきは、それを犯すもの、加害行為の排除であり、ここから、何をもって「加害/侵害」とみなすのか、という議論につながっていく。――如何なる状態をもって“尊厳”があるとするのか、“尊厳”そのものにアプローチするよりかは、“尊厳”を犯しているとされている要素、原因の特定、というよりその社会的合意が、“尊厳”をめぐる議論の基底にあるものだと思う。『ロスジェネ』の座談会で、杉田俊介ジジェクを引用して、福祉国家的な「分配」が「若者の怒りやルサンチマン」に対したときの限界を指摘しているように、やはり福祉国家の延長線上で“尊厳”を扱うのには、無理が生じる。内藤朝雄が主張しているように、個々人の“尊厳”が棄損されるほどの貧富の差が生じた場合にそれが是正されるために「再分配」政策は正当化されるのであり、“尊厳”という問題は、内藤のいう「自由な社会」を正義とする国家の論理で、検討されなければならない。…………『リアルのゆくえ』で、東浩紀は「尊厳の調達まで社会が面倒見てあげられないよ、というのはまずそのとおり。でも、その線をきっちり引いたうえで、にもかかわらず尊厳を個人的に調達できない人間がこれほど増えてしまった、それそのものは社会問題として扱っていいと思うんです」と発言し、大塚英志は「ひたすら悶々と嘆いていったときに、そこではじめて文学なり思想なりが持っている意味合いみたいなものが生きてくる」と、応じる。同書は、生まじめに振舞うことのアイロニーに気づいてないフリをし続ける大塚と、脱構築シニシズムとの妥協と切断のありかたを問う東の、思想上のパフォーマンスをめぐる対論だけれども、私的領域における“不幸”のかたちを、“公的”に問うことが果たして可能なのか、ブログ論壇なるコトバがあまりにも安易に流通されるなかで*2、ウェブ上のコトバが、公‐私の領域を越境しながら、それを無効化させるのでなく、むしろその境界が強く意識される、そんな時代に、「実存の不安」というものが、そのコトバづらだけで抽象的に扱われることに、一抹の不安を覚える。

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

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ロスジェネ 別冊 2008―超左翼マガジン 秋葉原無差別テロ事件「敵」は誰だったのか?

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*1:ただ、「別々のエッセー」というのでは済まされない問題もあって、犯人Kがネット上で共感を呼んでいる現象について、濱野智史のものでは「筆者の見る限りでは、それは本当にごく一部の間で見られるに過ぎない」としているのに対して、浅野智彦のでは「多数あがっている」と記されている。ネタととるかベタととるかの違いといえばそうなのだけれども、若年層の“尊厳”をめぐる施策においては、正反対の結論が出るには違いないだろう。

*2:「論壇」ってコトバ自体、否定しなきゃ、しょーがないでしょうに。