吉田真樹『平田篤胤――霊魂のゆくえ』(講談社)レビュー

平田篤胤――霊魂のゆくえ (再発見 日本の哲学)

平田篤胤――霊魂のゆくえ (再発見 日本の哲学)



 神道界におけるいわゆる平田派の思想が、国家神道のバックボーンを提供したこともあり、平田篤胤は近代日本/日本近代の祖のひとりであることは疑いえず、それゆえ篤胤における合理主義的側面が論及されることが多かったが、本書では篤胤の非合理的側面、篤胤の思索にとっての「霊魂」の意味性について詳らかにしていく。近世における庶民的思想である「業」に強く捕らわれた篤胤は、本居宣長の思索に触れ、独自の「神」そして「霊魂」の思想を練り上げていくことになる。それはそのまま(庶民‐)仏教批判へとつながるが、篤胤が追究したのは、生/死の問題ではなく、「生と死を貫く霊魂の問題」であり、「霊魂」の尊厳という主題だったが、結果的に篤胤の思想は、個々の主体の内面を問題化することは避けられたかわりに、主体の外的なもの、即ち個々の行動的倫理的規範たる「道徳」の学へ接近していくことになり、「篤胤において近代日本の国民像の一部がすでに用意されつつあった」。明治日本が平田派を排除したあと、国粋主義者の祖としての篤胤の像が受け継がれていくことになるが、「業」を背負い、超克しようとした宗教思想家としての篤胤は、日本の近代空間のなかで、忘却されることになったのだった。