〈疎外〉社会の政治学



 吉本隆明は、名著『カール・マルクス』において、「人間の自然にたいする関係が、すべて人間と人間化された自然(加工された自然)となるところでは、マルクスの〈自然〉哲学は改訂をひつようとしている」と述べている。「つまり農村が完全に絶滅したところでは」。――「人間の意識内容のなかで、自然的な意識(外界の意識)は、自己増殖と、その自己増殖の内部での自然意識と幻想的な自然意識との分離と対象化の相互関係にはいる」。
 マルクスの「疎外」概念は、吉本によれば、「全自然を、じぶんの〈非有機的肉体〉(自然の人間化)となしうるという人間だけがもつようになった特性は、逆に、全人間を、自然の〈有機的自然〉たらしめるという反作用」を呼び起こすが、この両者の「からみ合い」のことである。端的な例示をだせば、「労働する者とその生産物のあいだ、生産行為と労働(働きかけること)とのあいだ」ということになる。
 つまり、「疎外」的環境は、「自己増殖」を遂げるということである。この度合いは、「農村」の絶滅の度合い、即ち都市化の進行と正比例するだろう。
 「疎外」という遠近法のもとでは〈法〉〈国家〉という政治制度は、人間が、自身が作り出したものに支配されるというあからさまな事態を表象しているにすぎないが、吉本が指摘するように、「〈宗教〉から〈法〉への下降が、市民社会の外に国家をつくりだすことと対応するように、国家が〈法〉によって政治的国家の意味を二重化してゆくときの国家内部と市民社会との直接の対立の意味をあきらかにする」。このとき、「具体的に生きているわたしたち人間の存在は、市民社会の内部では階級によって疎外され、市民社会の外では、〈法〉によって疎外されているという二重性をもっている」。
 さて、この「二重性」の間を埋めるのが、「官僚」である。「国家は、市民社会の外にあるから、代理人によって市民社会接触するが、この代理人は両者の対立をなだめるよりも、むしろ〈法〉によって固定した対立を仲介するだけである。/しかし、市民はたれでも国家試験をうければ官僚になれる資格をもっている。このことは国家と市民社会との対立を和らげるよりも、もともと市民に市民的な権利がないことを象徴しているにすぎない」。
 「市民的な権利がない」、即ち「疎外」されているいわば擬「市民」が、「官僚」になる。上記のような「疎外」的環境のもとでは、「官僚政治」はいかなる意味を持つのだろうか。「国家」は「市民社会」の外から、その支配権を及ぼす。「市民社会」側は、その対抗として、自らの「階級的要素」を「政治作用」として対置させる。「官僚」は、集合体として国家意識・意志・権力を、「形式」として作動させる。しかし、「疎外」的環境は、「自己増殖」するのだった。産業的展開つまり経済の拡大が、この主因であることは言及するまでもない。「疎外」的環境の「自己増殖」性は、「市民社会」側の充実と拡張というダイナミクスを先に生み、「国家」は支配権の拡充を、後手後手で企図せざるを得ない。「市民社会」の外にあるという客観的規定があるかぎり。
 代議制民主政において、自ら支持した政治家を議会に送り込むというのは、「立法権」を簒奪もしくは奪回するということである。「疎外」的環境にある擬「市民」が、「国家」を通じて「市民社会」と対決する。が、先述したように、「市民社会」側のダイナミズムが、常にその対決を脱臼させていくだろう。このとき、擬「市民」たる「官僚」は、この「市民社会」側のダイナミズムの優位を追認することによっても、両者の「固定した対立」を仲介するのではないか。代議制民主政における、人民が「国家」を通じて「疎外」的環境を縮減していく回路を鎖し、「市民社会の内部では階級によって疎外され、市民社会の外では、〈法〉によって疎外されているという二重性」を、維持すること。それこそが、「官僚」の存在理由と化しつつあるということ。このとき、この大いなる「疎外」社会は、「自己増殖」をこそ、神学的地位に祀り上げるだろう。
 吉本は、「改訂をひつようとしている」と述べたあとで、「だが、わたしはここでは遠くまでゆくまい」と、あたかも論理の歯車が回転し出すのを抑制しているようなのだが、これは当然、マルクス思想の核心部分を取り出す目的から外れるのを危惧したものであるものの、60年代半ばの政治状況から、社会の普遍的な進行を描き出すには、ロシア・マルクス主義の亡霊たちが鬱蒼として、未来へ向ける真の危機意識の共有の不可能性が観念されていたに違いない。


カール・マルクス (光文社文庫)

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