ぬるい眠り



 「研究会日乗」で、千野帽子が、「批評のこと。」と題する文章を載せている。『CRITICA』で表明された“ジャンル”共同体に対する批判というか屈託の延長線上で書かれたもの。「(…)私の関心は、作品やその作者が他人の批評言語に耐えうるかどうかではなく、読者(消費者)が他人の批評言語に耐えるかどうか、ということにあります」という千野氏の問題意識には、素直に共感する。ただ、私の場合、この「読者(消費者)」のトコロに「評論家」の三文字が入る。そして、「他人」のトコロには、各ウェブサイトやブログ、が代入されて…………言葉を重ねようとしたけれども、馬鹿馬鹿しいんでやめた。まあ、このあとどんなことが言わんとされるのかなんて、誰でも予想つくと思うし。たださあ、以前にも書いたけれども、ワタシはこの本の内容ワカリマシェーンなんて文章を、商業原稿に書くバカがいて、載せるバカがいる。それを喜ぶお客様がいるのはまあわかるとしても、それって果たして“需要”と呼べるんかね。ってことで。…………ワタクシ的には、“文体”を持たないプロ評論家の方たちは、別に廃業せよとは申しませんが、あんまりギョーカイで幅利かせないでほしい。文章がヘタクソな奴に「人間が描けていない」なんて言われたのを目にして、作家も読者も、その評論屋の文章を雑誌でたまたま見たひとも、不愉快であってさ。なんでこんな文章に商品価値が発生するのって。
 …………どこかの媒体で、「この評論家がすごい!」なんて企画やってくれないかなあ。*1
 *2

もっとすごい! このミステリーがすごい! (別冊宝島 1503 カルチャー&スポーツ)

もっとすごい! このミステリーがすごい! (別冊宝島 1503 カルチャー&スポーツ)

*1:ちなみに、ワタクシ的に“文体”を持っているミステリ評論家といえば、新保博久、三橋暁、杉江松恋といったあたりかなあ。とくに『このミス』が成功したのは、三橋氏のレビューの文章の上手さに与るところが大、と思っているのですが。

*2:蛇足。もうすでに誰か指摘されているのだろうけれども、大森氏のエントリ「おれのゴルゴに。」で取り上げられているエッセーは、たぶん呉智英のものです。