橋本治『小林秀雄の恵み』(新潮社)レビュー

小林秀雄の恵み

小林秀雄の恵み



 小林秀雄を、「じいちゃん」と呼んで納得させることができるのは、このひとしかいないだろうな、と思う。…………「小林秀雄の恵み」とは、著者にとっては、「学問をすれば、(…)自信をもってなんでもやることが出来るのか」、と感得させられたことにある。そして、「もう一度ちゃんと学問をしてみようかな」、と。この「学問」というのが、本書のキーワードのひとつになるのだけれども、この「学問」ということをも含めて、本書で問われるもののひとつには、“私”的なものと“公”的なもの、その境界線が奈辺あるか、がある。注意すべきは、これは、本居宣長という「近世」の思想家についてなされるもので、著者はさらに、この本居の思想を、『本居宣長』内で小林秀雄がいかに微妙に取り違えていくかに言及し、小林秀雄と、彼がいた「近代」の内実に迫っていくのだ。だから、本書は、いわば入れ子構造になっているのだけれども、だからといって、著者が従来の語り口を捨てて晦渋になっている、ということは全然ない。話の持って行き方の回りくどさに対するエクスキューズはあるけれども、著者の懸念とは裏腹に、論及の明晰さは、冴えわたっている。――著者は、批評における「不等式→等式→不等式」の変化、即ち、批評する対象に対しての「謙虚から自負へ至るプロセス」を、小林のベルグソン論に託して語るが、本書において、著者と本居宣長の間にはそのような関係が成立しているかもしれないが、著者と小林秀雄の間には、そのような関係は成立しているや否や。「小林秀雄はそのあり方に於いて、「読者の仏」なのである」という。ここでいう「仏」とは、単なる「同伴者」のことだ。つまり、付き添うだけで、一切かかわらない。日本においては「仏」とは、そういうものだった。そして、小林秀雄の「評論」とは、読者を誘う「トンネル」であると、著者は結論づける。「トンネル」を掘り進めた小林は、必要があってそうした。そして、「トンネル」の向こう側には、小林の姿は、もういないのである。――なんとも印象的な終章まで、著者のいたって平易な語り口は、「小林秀雄」を必要としていた時代の陰影を、おぼろげに映し出す。