テロルの考現学



 北村薫『鷺と雪』が直木賞を結果的に受賞したのは、背景に政治テロを扱っていたからかもしれない。時代の空気を読んだ*1、ってことだけれども、そう思うのは、長山靖生『テロとユートピア』、中島岳志朝日平吾の鬱屈』と、昭和維新テロに至る精神史とでもいうべきものを扱った著作が続けて刊行されたからだ。時代的には、『朝日――』が『テロと――』の前史にあたる。長山も中島も、秋葉原事件や元厚生労働省高官の刺殺事件が念頭にあるのは、間違いない。ところが、そういう懸念が表明されるほど、朝日平吾橘孝三郎の辿った隘路と、現在という時代の状況性の差異があからさまにされる、というか。日本の近代前期には、“革命”のリアリティがまだあった、ということでしょう? 現在には“革命”のリアリティがないのか、と問われれば、政治体制の一方が自壊して二十年の歳月を経た今日、“革命”するには、目指すべきユートピア不定形な像しか結ばない、としかいいようがない。そして、政治におけるテロリズムの帰趨とともに、宗教におけるそれがどういう末路を迎えたか、私たちはもう知っている。要するに、“大きな物語”、これを“大義”と呼び変えてもいいが、それが失効しているという端的な事実の追認であり、それは“システム”の抽象性が、政府高官や富める資本家などの個々の人格に還元されることはない、ということでもある。元厚労省高官の事件にしても、ウラにドロドロしたものがあると囁かれても、せいぜい年金財政の構造的不正(要するに横領ね)にからむイザコザの範疇を超えない(それはそれでコワいですけれども)。――中島は、橋川文三の所見を引用して、昭和維新運動における「超国家主義」の精神性が、現在の閉塞感に呼応して復活し始めていると強く示唆する。橋川は、朝日平吾を捉えて「近代日本人にとって、ある意味では未知というべき感受性」として、後の井上日召らのパーソナリティの原型を見るが、長山のいうように、日召の説いた「一人一殺」が、オウム真理教の「ポア」に通じるものがあるとしたら、それこそ、昭和維新運動も遠くなりにけり、ではないだろうか。状況にたいする錯視*2が、必要有効な手段を妨げるばかりか、単なる人殺しを時代の子に祭り上げ、以て無惨にも命を奪われたひとたちを、二重三重にも殺しかねない。

テロとユートピア―五・一五事件と橘孝三郎 (新潮選書)

テロとユートピア―五・一五事件と橘孝三郎 (新潮選書)

朝日平吾の鬱屈 (双書Zero)

朝日平吾の鬱屈 (双書Zero)

*1:直木賞選考会側が、です。

*2:長山『テロと――』P227に、大正期の大戦景気の終わりと平成のバブル崩壊を重ねて、それからの時代の推移に「恐ろしいばかりの類似性」を見出す年表が掲載されているのだけれども、一見してちぐはぐなそれに、「恐ろしいばかりの類似性」を見てしまうのは、まさに典型だ、といわざるを得ない。