持丸博 佐藤松男『証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決』(文藝春秋) 酒井順子『金閣寺の燃やし方』(講談社)  松本健一『三島由紀夫と司馬遼太郎―「美しい日本」をめぐる激突』(新潮選書)レビュー

証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決

証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決



金閣寺の燃やし方 (100周年書き下ろし)

金閣寺の燃やし方 (100周年書き下ろし)



三島由紀夫と司馬遼太郎―「美しい日本」をめぐる激突 (新潮選書)

三島由紀夫と司馬遼太郎―「美しい日本」をめぐる激突 (新潮選書)



 昨年は三島自決後四十年ということで、様々な企画出版があったが、時代を画する象徴的作家と比較・対峙させるものが、やっぱり面白い。このうち『証言――』は、三島と福田恆存を扱ったもので、このワンセットは日本保守の言説空間では定番だけれども、著者らが二人と師弟関係にあったということで、当時の政治的情況が生々しく語られる。三島と福田の天皇制に対する態度については、三島の“恋闕”に比べて、福田は歯切れが悪い。著者らは、福田の思想観・問題意識について分かりやすく解説するが、私見では草の根的日本文化の延長線上、その極点に存在する天皇制に、宗教的超越性を付与させることが不可能であることの認識が福田の口を重くしている。
 名エッセイストである酒井の『金閣寺の燃やし方』では、三島と対峙させられているのは、水上勉である。敗戦から五年経った時代に起こった金閣寺放火事件。その六年後、三島は『金閣寺』を世に送り、水上は放火事件の十二年後に「五番町夕霧楼」を発表し、さらにその十七年後の昭和五十四年に『金閣炎上』を刊行した。水上は、三島の『金閣寺』に対抗心を露にしていたが、酒井は二人の出自を追いながら、表日本の三島、裏日本の水上と、それぞれの「日本」を表象し呪縛された二人の作家の軌跡を、鮮やかに描き出していく。三島と水上、互いが互いの陰画的な肖像としてあるように、酒井は二人を定位させるが、1980年代以前の昭和時代の精神史を立体的に捉えていて、読者を深く感得させるものだ。あまたの三島企画本のなかでも出色の著。
 日本近代精神史の内実を問い続けている松本のものは、「国民作家」である司馬遼太郎と三島の思想的相克を俎上に載せている。両者の北一輝批判の相違から、“歴史”に対する態度の彼我の差へと、松本の筆は進んでいく。要するに、「天皇」と「革命」という項の受容(三島)と拒否(司馬)の決定的差異なのだが、90年後半の歴史教科書運動が、三島主義者たちが司馬史観を奉ずるという珍妙な光景を現前させたのは、司馬の嫌悪した「思想」の自己完結性すら崩壊していたという事実によるものだろう。「国民」の「物語り」としての『坂の上の雲』の連載中に三島の自決があり、その自決事件後に、反=「天皇の物語」としての『街道をゆく』の執筆を開始した。そして司馬は、バブル崩壊後低迷する時代のなかで「憤死」した。
 三島に対して、福田恆存は「天皇制」の実効性について憂慮し、水上勉は三島的美学が排除してきたものを浚い、司馬遼太郎はその思想の閉鎖性を躊躇なく裁断した。――三島由紀夫は、確かに「戦後」とは寝なかったけれども、「昭和」とは十二分に戯れた、ということは言えるだろう。「昭和」は、戦後消費社会が極点を迎えた時点で、幕を閉じた。